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✦上質な笑いで芸術の秋を |
10月23日 (水) |
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午前の日本の古典芸能をめぐる講演会につづき、
午後からは、大蔵流狂言三番と語りを観た。
年一回、この季節におこなわれる狂言鑑賞会。
磨かれた芸、上質な笑い、様式を踏まえた古典的な、
カチッとしたことばのリズムに酔う、このひと日を楽しみにしている。
きょうの演目は、あまり演じられることのないものばかり。
狂言「音曲聟」(おんぎょくむこ)、「鱸庖丁」(すずきぼうちょう)、「呼声」(よびごえ)、
それに語りの「忠度」(ただのり)。
狂言の楽しみのひとつに、室町期以来の伝統的な日本の習俗にふれることがある。
最初の「音曲聟」は、「鶏聟」などでおなじみのバカ聟ばなし。
ここでは、三歩前に出て三歩引き下がる、など何事につけて「三」という数字が出てくる。
よくわからないが“三はりさし”とかも。
婚儀における「三三九度」の盃など、この「三」の様式に則るものか。
それなりに深い意味があろうかと知れる。で、“聟入り”とは、
いまの感覚でいうそれとは異なり、結婚後、聟さんが初めて嫁の実家を訪れ、
舅に挨拶する儀式。当時は嫁入りの儀式以上に重要な意味をもつものだったようだ。
この曲にあっても、舅が聟さんに会うのはこれが初めて、と語られている。
それには厳粛な細かい作法があったようだが、純朴で世間知のない若い聟は、
相当いい加減な教え手の、たちのわるいからかいに疑うことも知らず乗せられて、
途方もない振る舞いに及ぶ。しかし
狂言のおかしさであり、何とも言えぬあたたかさは、ここにある。
舅のほうも、世間知らずながら実直な聟どのに恥をかかせまいと、
その突拍子もない振る舞いに調子を合わせる(「相舞い」という。「曖昧」でもあろうか)。
そこですよね、狂言に特有の、ゆたかな、上質な笑いを生む根源は。
「鱸庖丁」では、甥の口から出まかせの言訳を見抜いている伯父が、
巧妙な口調子で逆に甥を言いくるめ、追い返すという話。ここでは、
魚(海のものなら鯛、川のものなら鯉)をさばく作法が語られる。
これなどは、南房総の千倉にある高家神社の、平安朝初期からの
伝統的な神事「庖丁式」が想起されて興味深い。「刺身」とは言わず
「打ち身」というのは、まな板にバチッと庖丁を打ち付けるからか。
(写真参照:左手の菜箸で魚を抑え、右手の庖丁で上からスパッと切る)
「呼声」は抜参物のひとつ。 もうこのへんでだらだら書くのをやめますが、
内容は、至極、単純明快な曲。無断でどこぞへ雲隠れした太郎冠者を、
今は帰って来ていると知る主人と次郎冠者が、呼び出して責めようとする。
太郎冠者は居留守を使って逃れようとするが、ここで登場するのが
平家節、小唄節、踊り節といった、室町時代後期に庶民のあいだで流行っていた歌謡。
さすがの太郎冠者も、もうじっとしてはいられず、浮かれ出し、
ついに主人の前に飛び出して踊りまくる。もう、会場は大笑いとなる。
こんな芸術の秋はいかがでしょうか。
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