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芝居『身毒丸』を観てきました(完全に趣味の話) |
12月02日 (日) |
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この写真、どこだか分りますか?

って、これで分かったら、相当好きな人ですね。
これは、阿佐ヶ谷にある小劇場、ザムザ阿佐ヶ谷です。
今回は、完全に趣味のお話でございます。
今ここで、「劇団☆A・P・B-Tokyo」という劇団が、公演を行っています。
この劇団、寺山修司作品を中心に公演を行っていて、2007年に公演された『青ひげ公の城』を観て大変衝撃を受け、気に入ってしまい、以来ほとんど毎回足を運んでいます。
今回の作品は、寺山修司作『身毒丸(しんとくまる)』。
台本は大昔に読んだことがあったのですが、観劇するのはこれが初めてです(岸田理生との共作版とは、少し違うらしい)。

小屋に入ると、舞台には薄暗い照明の中、赤い鳥居、キツネの面、おびただしい数の護符、地蔵、墓石、卒塔婆。
そして客入れ真っ最中ですが、すでに舞台では役者たちがうごめいています。
黒子がふたり。そして、柱時計を背負い赤い毬を手にしたセーラー服姿の少女がふたり、青白い顔をしてうつろな視線を送りながらふわりふわり戯れている。
そして徐々に客席が埋まる中、舞台上の黒子は4人ほどに、セーラー服の少女にいたっては6人にまで増えてゆく。
もちろん小劇場なので、舞台の間口も奥行きも6メートルほど。さらにセットを建てこんでいるので、さらに狭い。そのステージに所狭しと、異様な風態の人々がうごめく。
こういうの、好きですね。
現実の日常性と、演劇空間としての非日常性。この両者が等価な世界へと空間を変容していく。日常と非日常の連続性。演劇の本質とは、こういうものだと私は思っているのです。もっと大きくいえば、芸術的な情動の発露とはこういうものだと、私は思っているのです。
だからこそ、表現行為とはきわめて呪術的な行為だと思うし、この劇団はそういう力学をとても大切にしているように思うので、私は大好きなのです。
そして、音楽が響き、舞台が暗闇に包まれる。そして漆黒の闇を切り裂くようにマッチに火がともされ、物語が始まる!
まなざしの
おちゆく彼方ひらひらと
蝶になりゆく
母のまぼろし
てのひらに
百篇母の名を書かば
生くる卒塔婆の
手とならむかな
正しい演劇の姿、なんてものは存在しません。いろいろなスタイルがあっていいのでしょう。
ただこの芝居を観ると、演劇とは強烈なエネルギーを持った暴力的なものだということを、あらためて感じさせてくれます。
身毒丸の母を求める地獄めぐり。母親地獄。家地獄。
ライ病を病み、怨念にまみれた地獄めぐりをする身毒丸。
その身毒丸と同じ空間を共有する観客も、安全な客席から高みの見物というわけにはいかない。そもそも、劇場に安全な場所などないのだ。否が応でも、観客は身毒丸とともに苦しみ、地獄をめぐることになる。
この強烈で暴力的な空間支配。現実も非現実も、ひとつの物語にすぎない。
この圧倒的な呪術的空間・物語的空間が、私の好きな演劇なんだな~と、しみじみ感じながら昨日は夜の阿佐ヶ谷を後にしました。
と、今回は完全に趣味のお話でした。
に加えて、気持ちをぶつけるように書いてしまったので、めんどくさい文章ですね。ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
4日まで公演しています。ご興味のある方は、行かれてみては??
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