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幸せは赤ちゃん絵本から 松居直
“ひと”は言葉なしには生きてゆけません。感じることも、思うことも、考えることも、すべて言葉の力によっています。
人間の五感といわれる視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚はすべて言葉につながっています。
五感を深く鋭くゆたかに感じとることは、すべて言葉の働きにかかっています。
人の思いや感じ方や考え方を受けとめる力も、五感をとおして私たちの内にたくわえられてる、言葉の働きです。
近ごろ子どもにまつわるいろいろな事件のニュースを眼にし、耳にするたびに、
子どもたちの育ちの中での言葉の体験の貧しさが気になります。
頭の中には知識や情報につながる言葉はたくさん詰まっていても、
心の中には言葉がからっぽなのではないかと感じたりします。
心の中にゆたかな言葉がたくわえられていないと、人の気持を感じとることはできません。
人の痛みを思いやることもできません。
私たちの育ちの初めに、お母さんの言葉があったのです。
赤ちゃんはその言葉を耳にして、言葉を飲みこみ、食べるとともに、気持もいっしょに感じとります。
話しかける人の情愛のこもった声、口にする言葉が、赤ちゃんの気持をめざめさせ、赤ちゃんの心を育てます。
お母さんに抱かれ、声の言葉が降りそそがれるとき、赤ちゃんはそこにだれかが居ることをはっきりと感じ、安心するのです。
人の成長の出発点にあった体験は、だれかと“共に居る”体験でした。
お母さんの腕に抱かれ、シャワーのように降りそそがれるお母さんの声。
こうして母と子の間に、五感をとおして共に居る実感が生まれ、共に生きる歓びが親子で共有されるのです。
歓びは受け入れる力であり、愛は互いに受け入れる体験です。
歓びこそが生きる力です。歓びが歓びを生むこと、それが幸せというものです。
赤ちゃんといっしょに絵本をみながら、お母さんが自分の思いを自由に語りかけるとき、
その幸せが実現します。
赤ちゃんの幸せはお母さんの幸せにかかっています。
お母さんが幸せでなくて、赤ちゃんが幸せになれるわけがありません。
今の時代は、何としてもお母さんの幸せを考えて、お父さんをはじめ、皆が心をつくさねばなりません。
「赤ちゃん絵本」は赤ちゃんの歓びと、お母さんの幸せとを汲み出す愛の泉です。
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福音館のメルマガで、「ぱたんぱたんの魅力」として村中李恵さんの話が面白いので紹介します。
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赤ちゃんといっしょに読むことで、絵本の魅力を再認識することがあります。
なんといっても、開くということのおもしろさ。赤ちゃんを膝に乗せて、表紙をながめたあと、
「さあ、どんなお話が始まるのかなぁ」などと語りかけながらページを開くと、
あらら、画面の大きさは、一気に表紙の倍になります。
赤ちゃんにとっては、これがもうちょっとした驚きのようです。
一度に画面の全体を見渡せる大人と違って、赤ちゃんはまだ心もとない首まで右左に動かして、画面のひろがりを受けとめます。
そして、次のページがめくられると、また見たこともない新しい画面。
次のページをめくると、またまた新しい画面。これは、ようやく自分のまわりのいろんなものに対して
「そこにある」ことを視覚によって受け入れ始めた赤ちゃんにとって、衝撃的なことだと思います。
よく、お母さん方から「うちの子はせっかく絵本を読んであげていても、
勝手にページをつかんで、前の方へぱたんと戻しちゃうし、
ひどい時は絵本をぱたんと閉じてしまうんです」というお話をききます。
この「ぱたん」には、赤ちゃんの驚きと、その驚きの源を確かめようとする好奇心がいっぱいつまっているような気がします。
なぜ、ひらくと、違う絵が目の前に 広がるのか。
どうして、ページを戻すと、もとの画面に戻るのか。確かめずにはい られないのでしょう。
ですから、読み手もがっかりせずに、ぱたんぱたんのページの後戻りにあわせて、
ページに書かれていることばも後戻りさせて、その繰り返される音の響きを添えていくと、
思いがけない立体的な絵本の世界が立ち上がることも、あります。
赤ちゃんといっしょに絵本を楽しむ場合は、色や音やかたちを中心に、
柔軟に絵本と 付きあったほうがよさそうです。
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「がたんごとんへの道」村中李恵さんのコラム(福音館メルマガより)
10年前、本屋さんで『がたんごとんがたんごとん』(安西水丸)を初めてみつけ
たときには、「しまったぁ、息子と一緒によみたかったあ!」と思わず叫んでしま
いました。3両連結の汽車ががたんごとんと進んでいきます。1駅ごとに、哺乳
瓶、コップとスプーン、リンゴとバナナが待っていて「のせてくださーい」。1駅
ごとにお客を乗せて、汽車はがたんごとんがたんごとん。終点でみんなを降ろす
と、汽車はまたがたんごとんがたんごとん……ゆっくりゆっくり遠ざかっていきま
す。
「がたんごとん、がたんごとん」と声に出して読むと、音の余韻 ああんおおん、
ああんおおんが、赤ちゃんのなんご(喃語)をイメージさせ、甘やかな気持ちにな
ります。ひざの上にだっこしてふたりでがたんごとんと揺れながら読んだらどんな
にか……と思いながら、生意気を言うようになった小学2年生の息子と読んでみま
した。
すると、「のせてくださーい」とホームに立ついたいけな哺乳瓶に向かって、照
れながら「いいよー」。次の駅で待つコップとスプーンにも「いいよー」。ちょっ
と低くて男らしい声。ちょうどギャングエイジにさしかかろうとする息子にとって
それは、集団への仲間入りを請うものたちへの了承の儀式のようにもみえました。
この儀式、3両満席になったところで、難問がふりかかります。なおも、「のせ
てくださーい」と頼む者たちが現れるのです。ネズミとネコ、それまでの哺乳瓶や
コップ、お匙のように、手を貸してやらねばどうにもならない、というわけでもな
さそうです。息子は真剣に「こまったなぁ……」
もう彼は、この絵本のものがたりを進め行く列車そのものです。思案の末「しゃ
あない、どうにかなるやろ」ときっぱり。彼の許しを得てページをめくると、みん
なうまいこと乗りあって、がたんごとんがたんごとん、息子はすっかり満足した笑
み。なるほど、赤ちゃんがこの絵本と出会って味わうような、汽車に揺られる喜び
だけでなく、お客さんとのかけあいで汽車をひっぱっていく喜びも、少し大きい人
のために、用意されている絵本なのだなぁと、わかりました。
ところで、赤ちゃんとこの絵本を読むときは「のせてくださーい」という哺乳瓶
やりんごのことばに、まさか赤ちゃんが「いいよー」などと返事を返すわけはあり
ませんから、だまってページをめくると、彼らはもうちゃっかり汽車に乗り込んで
います。まだまだおっぱいだいすきなわが子を抱いたお母さんたちが、この
「ちゃっかり」に、うふっ、とほほえまれる姿を何度か目撃しました。
このとき、絵本の中の哺乳瓶やコップやお匙は「乗せてくれませんか?」と問う
のではなく「乗りたいのよ」、「乗りたい私がここにいるのよ」とひたすらに主張
する「無垢という名のつわもの」に変身するのです。それって、腕の中で母親のお
おっぱいを待つ赤ちゃんそのものですよね。拒否されることなどゆめゆめ疑うこと
なく「のませてくださーい」。
ちいさい命との「がたんごとん」の日々は、まだまだ続きます。どんな子育てに
も「しゅうてんでーす」という日は、おもいがけず、そして必ず、やってくるんで
すけどね。 |
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