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「国際交流のもたら人間成長」というテーマについて考えていきたい。換言すれば、異文化の体験は、人の自己理解をもたらし、人に対する対応力と理解を広げ、わたしたちのライフ・スタイルに変化をもたらすのか?というテーマである。"An Introduction to Cultural Exchange"
という表現で展開していきたい。
21世紀は、グローバルな時代であるということは、多くの人々が述べ、事実そうした現象を我々は、日常的に見ている。つまり、毎日のメデアの伝える経済分野、スポーツ分野、文化交流の分野等でいわゆる「国」という縛りを越えて繰り広げられる活動は、われわれの既成概念を再考させるにたるものだ。例えば、イチローのシアトル・マリナーズでの活動を見てみるといい。彼は、日本生まれの日本人、日本語を話し、日本食をたべ、れっきとした日本人である。しかし、いったん野球というスポーツの選手として活動する時、シアトルのベースボール・ファンにとって、イチローは、マリナーズのリード・オフマンである。シアトルの小学校を訪問し、子供たちと交流する時、子供たちが見ているのは、日本人のイチローではなく、彼等にとって、ベースボールの「Role Model」(模範)としての見ている。将来自分もあのようになりたいという夢を子供たちにもたらしているのだろう。このことは、海のこちら側、日本の子供たちにとっても同じだろう。最早、レッテルとしての日本人は、後退し、プレーヤー、人間としての彼の一挙手、一投足が浮かび上がってくるのだ。
イチローの属性である日本人という側面が、あまり意味を持たなくなってくるのだ。このことは、スポーツだけでなく、例えば「車」を考えても同じ事が言える。MadeinJapanというブランドは、ステイタス・シンボルとなっている。いわく、ホンダであり、日産であり、そしてトヨタである。ところが、こうしたブランド約2,000の部品のうち(エンジンは、さておきバンパー、シート、タイヤその他の部品の多くは、複数の国々(!!)で生産されている。この事実から、国にこだわることが余りリアリテイがなくなってきている。国は後退しいわゆるConglomerate(国際複合企業)に移って来ているのだ。
また、音楽の分野に目を向けると、指揮者の小沢征二。マエストロ・オザワとして、カラヤン等と並び称せられている。ゴハンと味噌汁がないと駄目という彼だが、一方、世界性を持つ指揮者である。しかし、オザワの偉大さは、輸入されたドイツ産ベートベン演奏ではなく、オザワのベートベンを演奏なのだ。洋楽が日本に渡来して僅か100年。西洋の模倣から、解放されて、人間の普遍的な精神に何処まで肉迫するかということである。
オザワは、自己の体験を深め、充実することを通じて、私達日本人に、普遍的な精神までたどり着くことを音楽の領域でトライしていることである。言い換えれば、国、文化の解釈を広げ、人間の魂に訴える音楽の創造と演奏なのだ。
こう考えてくると、グローバルであるということは、概念ではなく、活動する主体によってもたらせられるということであろうか。
デンマークに哲学者のキルケゴールは、その名著「死にいたる病」の冒頭で、「人間とは何か?
人間とは、精神である。精神とは何か?精神とは、自己自身に関わる関係である」として人間は関係存在として考えた。そして、人間のリアリテイは、「主体性が、真理である」とした。
この二つの命題、「関係存在と主体性」が全ての人間にとってリアリテイを持つものであるなら、グローバリスムは、概念ではなく、一人一人の生き様に関係をもたらすのである。これから考えてゆく「国際交流のもたらす人間成長」のテーマは、音楽でいえば、主題の通奏低音である。 |
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