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海は、ある時は、人と人の障壁であり、ある時は結びつける道でもある。
明治維新を待つこと35年、現愛知県の美浜の出身の3名の日本人がアメリカの北西部(ワシントン州シアトルから約130マイル)のフラッタリー岬という浜辺に漂着した。彼等は、米を運ぶ宝順丸という千石船に乗り、江戸に向かったが、途中嵐に合い、難破し、親潮に乗り1年2ヶ月という時を費やし、本人達の意思とは別に、かの地に漂着したのである。彼等は、音吉、久吉そして岩吉の3名で岩吉を除き10代の少年達であった。
彼等は、マコー・インデアンというアメリカ先住民(鯨捕りを生業とする)に救助され、しかし彼等の奴隷として使われていたが、やがてハドソンベイという英国の貿易会社によってロンドン経由でマカオに連れてこられた。当時、アメリカをはじめ、ヨーロッパの諸国は、日本の開国と通商を望んでおり、日本への関心が有ったことがその背景にある。
マカオで、ギュッスラッフという英国の宣教師に出会い、そこで新約聖書のヨハネ伝翻訳の手伝いをする。音吉達の日常語が反映されていて、誠に興味深い。それは、「ハジメニ、カシコイモノ、ゴザル。コノカシコイモノ、ゴクラクトトモニ、ゴザル」(現代訳は「初めに、ことばがあった。ことばは、神と共にあった」これがに聖書の日本語訳最初のものである。その後、歴史的展開は、彼等3名と九州の漁民の漂流民彦蔵達4名と共に日本にモリソン号で帰国すべく、江戸湾まで来るが、当時の幕府の「外国船打払い令」によって帰国を拒否されるのだが、その後、音吉たちは、香港そしてシンガポールに住み事業を起こしその地に生き、同じ運命で漂流せざるを得なかった日本人の世話をするのである。自分の国から拒否されても人間としての矜持をもって生きたのである。
彼等の人生を見ると、数奇な運命という歴史の潮に翻弄されながら、しなやかで、たくましい初めての国際感覚を持って生きた日本人と言う事ができる。 |
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