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└
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古典芸能 ―その2
◇2-5 狂言がいまのわたしたちに語りかけるもの
「ようこそござれた!」いつもの歓迎のことばを浴びて、狂言鑑賞会。
きょうは、「墨塗(すみぬり)」「空腕(そらうで)」「悪坊(あくぼう)」の三番。
あいだに語りと小舞の「春日龍神」と「景清」も挟んでの大蔵流狂言。
地域の小学校6年生70余名の特別見学会の仲介とお世話役としても。
三番目の「悪坊」となると、ちょっと疲れたことと、
前日来の鼻炎(花粉症)の症状と、それを抑えるために服んだ薬のため、
目の前がぼお~~っとして、睡魔との闘いになってしまった。
それ以外はこころの底から笑わせてもらった。
このところ、病む妻を介護しつつ明け暮れる日々。笑いどころか
会話もろくろくできない、われながら情けないうつの状態。
その情けない状態からいささかなりと解放されるこのひとときを
どれほど楽しみにしていたことか。
やはり、日本の伝統芸はすばらしい。
文化として根づくまでいかないうちにあぶくのように消えていくものが多いなか、
ここには流されることのない文化、日本の原形があることを感じる。
素朴な笑いの味わいだけでなく、ことばが洗練されている。
動きに無駄がない。語らずとも、背中で、わずかな肩の上げおろしで
見事に感情を表現する、削ぎに削いだ、他に例のない舞台表現。
鍛練に鍛練を重ねて生まれたシンプルな表現とことばの原質。
それは、文字によらぬ、口伝え、音によって体に沁みいり、
心身と一体となり、それを代々受け継いできたもの。
確かさがある。
演ずるものと観るものとの、一期一会のつながりが尊い。
すでにラボの世代は替わったが、かつてわたしたちの時代に
大事にしていた理念がある。ラボは教えるところではない、
さまざま機会を得て学び、学んだものをみんなで分け合うところだ、と。
この伝統芸とラボに一脈通じるところがある、とみるのは夜郎自大だろうか。
2010.10.11
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◇2-4 「能面のような顔」って…?
まさかそんなことはないと思いますが、もしあなたが「能面のような顔」とひとから言われたらどうでしょうか。あまりいい気持ちはしないのがふつうではありませんか。
ツンとして親しげがなく、表情に乏しく、蔑むように冷徹な目でひとを見る人…、そんなネガティヴな印象。あるいは、触れたらケガをしそうな、冷たく、ひとを寄せつけないような美しさもった人。そんな印象もあるでしょうか。
でも、それって、どうでしょうか。
この10月13日、わたしは大蔵流狂言を観る機会を得ました。「雁盗人」「伯母ケ酒」「塗師(ぬし)」の三番。お能ならともかく、狂言で面(おもて)をつけることは、そう多くはない。しかし今回、「伯母ケ酒」では“武悪”の、「塗師」では“蛙(かわず)”のおもてをみることになりました。
ここに書くのは4月初旬以来、半年ぶりになり、せっかくでもあり、ちょっと長くなりますが、一例を紹介させてもらいましょうか。
「伯母ケ酒」。おかしさにほんとうに腹がよじれるほどの一番。わたしは初めてこれを観ました。
シテ(甥)は、ちょっとお調子ものの、飲んだくれの若者。アド(伯母)は、山ひとつむこうで酒を造っています。
この年は格別に良質の酒ができたとの噂を聞きこんだ甥が酒造司の伯母を訪ねる。もちろんただ酒にあずかろうとの心算。ところがこの伯母というひと、とんでもないシワン坊。徹底したケチで、これまで一滴たりとも甥に酒を振る舞ったことはない。
稀れなほどよくできた酒なら、宣伝して町で多いに売ってやろう、については、わしに利き酒をさせろ、と迫る。いくら執拗に迫られても、伯母のほうはいっこうに聞く耳を持たず、つっけんどんに追い返す。
追い返された甥は、もう一度もどってきて、このあたり、このごろ夕刻になると鬼が出る、鬼が出てひとを食うという噂だから用心するように、といって立ち去る。
で、夕刻。はたして早速に鬼が出、荒々しく女を脅かす。鬼、すなわち甥が変装したものですね。武悪のおもてをつけて現われ、さんざん伯母を脅しつけた末、酒蔵に入って飲みに飲む。したたかに飲んだあと、さすがに酔って、面をわきにずらしたままコロリと寝込んでしまう。
その大いびきを聞いて、こわごわ伯母がやって来て見ると……。
(なお、付言しますと、古い時代にあっては、酒を醸(かも)すのはある特別な婦人の仕事でした。柳田國男の「物語と語り物」また「孝子泉の伝説」などによると、「醸す」は「噛む」を語源にしているとか。今にいう「杜氏(とじ)」は、婦人の尊称である「刀自」から出ているともいいます。)
画像は、上記の「伯母ケ酒」で使用された「武悪」の面。悪質さや凶暴さ、はげしい怒りを表象しながら、どこか一本抜けたところも見える表情。
これらはいずれも、わたしの住むところのすぐ近くに工房をもつ76歳の面打ち師の作品。
どうでしょうか、こんなのにいきなり会ったら恐ろしさにゾッとして卒倒するかもしれませんね。
さて、「能面のような顔」というとき、まさかこの「武悪」や「大癋見(おおべしみ)」のような、迫力満点、恐ろしげな顔をイメージしているとは思われません。悪い夢に出てきて、うなされそうな面相。ましてや「嘘吹(うそふき)」のような、ひょうきんな顔でもないでしょう。
女性のケースでしたら、やはり「小面(こおもて)」や「十六」がイメージされているのではないでしょうか。
ご覧ください、端麗です、美しいです。まばゆいばかりの美しさ。清艶とか冷艶と形容したらよいでしょうか。
ですが、角度を変えて見なおしてみると、不運を嘆いているような、苦しさに泣いているような表情になりますね。
「十六」は、もと、須磨の浦で16歳の命を散らした平敦盛の面とされていますが、角度によっては、あどけなささえ見えますね。
いちばん上に紹介した「小面」の“小”は、可愛いという意味。華やぎとともに年若い乙女のういういしさ、はかなさが漂い、清純無垢な笑みものぞいています。
面(おもて)は、例外を除いては、特定の表情を持ちません。削りに削って、極限までシンプルにしてあります。媚びも衒いも見栄も、卑下も猜疑心も迷妄も虚飾も、およそ人間に本来不要な一切を削ぎ落とした顔。人間存在の素形をここに見ることができます。
シンプルで特定の表情を持たないからこそ、そう、演技により無限に多様な感情表現が可能になるんですね。
演技者がシテまたアドの個性と特性を表現するとき、基本としては、顔の角度にブレがあってはならない、ひとつの角度を決めたら、最初から最後までその角度を保ちつづけることが基本の「き」といいます。それ、考えたらきついですよね、視野は狭くてよく見えないし、へたをすれば能舞台から転げ落ちる可能性だってある。
また、面打ち師の仕事のじょうず・へたを分けるのは、微妙な角度の変化でどれほど多様な、それぞれちがった感情表現を生み出せるか、その技量によるといいます。腕の見せどころがそこで、そう簡単なことではありませんね。
上に掲げた「十六」のふたつの面を見比べてください。
上唇の紅が見えているかいないか、目の瞳が黒く丸くみえているかいないか、それだけでこちらに訴えかけてくるものはまったく違ってくることがわかります。傾きひとつで無限の表情を生みだす面(おもて)。
嘆くとき、ある決意をあらわすようなときには、うつむきます。これを専門的には「曇る」といい、喜びの複雑な感情をあらわすようなときには、逆にやや仰向けにします。
これを「照らす」といい、おもてを微妙に上下させるだけで表情を変化させ、情をあらわす芸が、わが国固有の演劇の能であり狂言であり、能面の無限表現のいわれなんでしょうね。
ですから、「能面のような顔」と、もしあなたが言われたら、それはあなたの魅力を的確に捉えた最高の褒めことばと信じていい、はい、自信をもつべしです。
Oct 15, 2010
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◇2-3 狂言「末広」「茶壷」にみる“すっぱ”
狂言を演じるのは
シテ
と
アド
。クマさんでも八っつぁんでもなく、固有名詞を持つことのない無名の人物たちで、「シテ」(仕手、為手)と呼ばれる主役者と、「アド」と呼ばれる太郎冠者や次郎冠者。こちらは、最古参の使用人であったり奉公人であったりする下賎のもの、あるいは若者。多少ながら軽蔑の意味も含まれているように思う。
さて、「アド」とは何かがよくわからないままだった。で、最近、偶然にも「アドをうつ」ということばに出会った。古い辞書にあたってみたところ、相手の言うことに応じて調子を合わせて適当な返事をすること、とあった。適当に返事をする、というと、その場かぎりのいい加減な返事をする、と思いがちだが、必ずしもそうではなく、TPOで、その場その場にふさわしい受け答えをする、と解釈するほうが近いかもしれない。
この解釈に添って狂言における「アド」を考えると、笑劇を演じる人にうまく調子を合わせて、ほめそやしたりして返事をし、はなしのスジを展開する役割の人、とでもいいましょうか。きっと専門家のあいだでは諸説があるのでしょうが、「相人」(あひうど)から来た、などという人もいて、わたしにはこれも安直なこじつけにしか思えない。
◆だれの心にもある「悪」の演劇的昇華“すっぱ”
で、ここで採り上げてご紹介しようというのが、太郎冠者・次郎冠者のアドとはいささか趣きのちがう「
すっぱ
」という存在。ときどき登場して痛烈な笑いのウズをつくりだす。「水破」「素破」などの漢字をあてることもあるようだ。どうでしょうか、「すっぱ」ということばのひびきからピーンと前頭部をかすめるのは「はすっぱ女」ということばではないでしょうか。薄っぺらで、やることなすこと品がなく、むきだしの「女の色気」を売りものにするいやらしい女。ある向きにはおもしろい魅力的な存在かもしれませんが、わたしのような純情無垢で謹厳実直、清廉潔白(!)なものには、いちばん苦手な存在。
あるいは「すっぱ抜く」という語も日常的に聞かれ、明けても暮れても女優やタレントのだれそれの不倫や政治家の不正をすっぱ抜くのが三流週刊誌の得意わざ。
しかし、狂言でいう「すっぱ」は、どうもこれらの語ともあまり関係はないようで、もともとは悪党、それも小悪党一般をいうようだ。戦国時代に活躍した間者(スパイ)、忍びのものから来ていて、かたり、盗賊、こそどろ、ぬすっと、スリ、詐欺師たちのことらしい。
今回観た曲のうち、「
末広
」(すえひろがり)に登場するアド〔売り手〕が「すっぱ」である。主人のシテ〔果報者〕からめでたい末ひろがりを買ってこいといいつけられた太郎冠者。どうやらふだんからだいぶ信任の篤い使用人と思われる。いいつけられてすぐ「心得ました」とは言ってしまったものの、さて、末ひろがりとはどんなものか、ほんとうはわかっていない。かといって、もののわかった男と主人に思われていると信じているものには、「それはどんなものですか」とはいまさら訊けない。
どうでしょうか、みなさんはご存知ですか、末ひろがり。
これは、中啓というものを指し、扇の一種ですね。まあ、都に行けば無いものはない、金さえあれば何とかなるだろう、と、男ははるばる都へ。だが、都に来てみてその考えの浅かったことに気づく。こうなったら仕方ない、大通りの人波を分け分け歩きながら「末ひろがりを買おう、のうのう、そこもとに末ひろがりはおりないか」(もっておいでではありませんか)と声をかぎりに呼ばわる。さては田舎者、と見た詐欺師の登場。このすっぱ、どこの家にでもある「から傘」を末ひろがりと称して、もったいをつけつけ売りつける。巧妙なだましで、冷静に考えれば途方もないインチキであり、滑稽せんばんなのだが、太郎冠者はすっかりこれが末ひろがりと信じこんて、得意になって帰ってくる。
当然ながら主人から無知と知ったかぶりをなじられ、こっぴどく叱られ、すっかり信頼を失墜、家からはげしくたたき出される。たたき出されてうずくまったところで、太郎冠者は、あのから傘を売りつけたすっぱが最後に教えてくれた囃しことばを思い出す。これを囃したてればどんなに怒っている人でも機嫌をなおすというもの。腰をさすりさすり太郎冠者がそれを繰り返し囃しているうち、主人の体もぴくりぴくりと揺れだし、やがてはいっしょに囃しつつにぎやかな歌舞になっていく。最悪の関係にあった主人と使用人の関係はいつの間にか何事もなかったように修復され、主人はご機嫌をなおす、というわけ。
この日に観た別の曲「
茶壷
」にも、へんなすっぱ(詐欺師)が登場する。たいそう貴重なものとされる京都・栂尾産のお茶を仕入れて帰るシテ(中国の男)。茶壷を背負って帰ろうとするが、したたかに酒を飲んでいて、正体もなく道のまん中に寝込んでしまう。片方の肩に茶壷の紐をかけて。さて、酔いから覚めて起きて見ると、見知らぬ男が反対側から肩に茶壷の紐をかけて寝ている。これがすっぱ。茶壷はおれのもの、いやいや、わしのもの、と押し合いへし合いの争いになり、おさまりがつかないまま、代官の目代が仲裁に入る。狡智にたけたすっぱのみごとなかたりもあって、どうにも裁きはつかず、結局は、どちらにも品物は渡さず、目代がそっくり持ち帰るというはなし。それはなかろうじゃないか、とストンと終わる。それに、登場してきてすぐに言う口上に「このあたりに住まいするすっぱでござる」と自ら名乗るのもおかしい。健康な「悪」というところか。
◆表現の祖形、日本中世文学の原質
このように、狂言に登場する悪党にはほんとうの悪党はいない。いまわたしたちが新聞やテレビで見聞きする、気に入らなければ誰でも殺傷する、自分の欲望を満たすためなら誰でも殺す、親でも子でも殺す、といった冷酷で情け容赦のない残忍さはない。暴力シーンは完璧に抑えられている。怒った主人が愚かな使用人を足蹴にして突き転がし追い出す、ということになっていても、そこは
狂言のたしなみ
とでもいうのか、扇子の動きひとつでそれを見せるだけで、着ているものの乱れひとつない。つまり、暴力的な醜さは微塵もない。どんな悪事も犯罪にしてしまわないという節度。
ミートホープ、白い恋人、赤福、比内地鶏…。年金のこと、薬害肝炎のこともある。建築偽装もあった。ひどいごまかし、うそつき、隠蔽ごとに晒されてわたしたちの生活はある。テロ対策のはずの海上自衛隊による給油量の隠蔽、防衛省の元高官の私欲のままのやりたい放題。こうした奢りと自分の利得にしか関心のない彼らの醜い欲望とは、だいぶちがい、「末広」の場合でいえば、すっぱは、だました相手がその主人の機嫌をそこね、叱られることまで見抜いていて、割れた関係を取り戻す術もいっしょにおこたりなく伝授している。それがおかしくもあり、やさしくもある。すなわち、この世界での「悪」とは、人間だれのこころにもあるちょっとした「悪」、ちょっとしたイタズラ心であり、それと裏腹には「つぐないの思い」が満ち溢れている。狂言に登場する人たちの滑稽さ、愚かさ、間抜けぶりは、だれにもある滑稽さ、思い違い、あなたにもある愚かさ、間抜けぶりであり、それを象徴的、演劇的に昇華したものにほかならない。この中世芸能の真髄はそれを表現することにある、という今回の発見。発見といえばはなはだ大げさですが、ようやくそんな理解ができた、というわけ。
もうひとつの発見は、
ことばへのこだわり
で、あるときには演劇的なものを犠牲にしてでも、狂言はことばをはっきりとあらわす、ということも知った。表現の祖形って、そこにあるのかもしれません。
= = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = =
◇2-2 能「百萬」
〔To: candyさん〕
奈良市を舞台とする「百萬辻子」(ひゃくまんずし)という、ごく短い昔話があります。
わたしが特に好きなお能の曲に「百萬」がありますが、このお能のもとになっているのが、これだと思われます。「百萬」は、「隅田川」という名曲とともに、 “狂女もの”を代表するひとつなのですが、あまりにも哀しく、喪ったわが子を恋い求めてさまよう女のせつない業を描くもの。
千駄ヶ谷の国立能楽堂で見た、目がさめるばかりの美しい舞台と、狂いの法悦のなかで泣き倒れる舞いは、いまも目の奥に焼きついています。さらには、日本画の巨匠・故森田曠平さんの傑作絵(下の絵=部分)とともに、それは忘れがたい物語。
いまでもあるのでしょうか、奈良の開化天皇の御陵の西に「百萬辻子」といわれた町。春日の巫女だった百萬は、ここに住んでいたとされます。艶やかな美しい女性です。巫女でありながらひとりの男の子をなしますが、西大寺の法要の際にこの子を連れて参詣したとき、おびただしい群集の中で子どもを見失ってしまいます。以来、悲しみのあまりこころを病み、子どもをもとめてあちこちを彷徨、ついには京都・嵯峨野の清涼寺の大念仏会で親子の再会をとげるという哀切きわまるストーリィ。
今辻子町(いまずしまち)の東の、西照寺というところに百萬の塚とされる石塔があると聞いています。=一部省略 (2006.10.07)
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◇2-1 狂言「柿山伏」に、
“笑い”の真髄と日本人に特異な感性を尋ねる
昨年のことだったでしょうか、「笑い」をテーマにラボ・ライブラリーが制作されたと聞きました。幸せを招く「笑い」。さて、みなさん、それを機にどこまで“笑い”をきわめたでしょうか。
そんな動きのなかで、ずっと以前からラボのみなさんの前に用意されている狂言――、もっとも純良に洗練され、われわれの生理にもっともプリミティブな「笑い」として日本の伝統のなかに生きているこの芸能を、みなさんがどう意識され、どう捉えたか、わたしはいささか気になっていまして…。以前にも書いたことがありますが―「古典芸能〔1〕の(2))参照―ふたたび思いつくまま書いてみたいと思います。
〔To: candyさん〕
昨日、10月4日、大蔵流狂言を観てきました。
山本東次郎さん一門によるもので、
「柿山伏」「水掛聟」「東西迷(どちはぐれ)」
の三番。いやいや、久しぶりに笑いました、笑わせてもらいました!
ラボのみなさんには馴染み深い「柿山伏」ですが、今回は、室町時代におこなわれていた狂言のおもかげをとどめる、もっとも古いテクスト、天正本(てんしょうぼん)の「柿くい山伏」にもとづいて演じられました。いくつかの点で違っていて、そこが最高におもしろい。たとえば、最後のところ。ラボのほうでは山伏を打ち倒してあっさりと入り留めになりますが、山伏の祈り伏しの法力にひっかかったようなふりをして、よろよろ、よろよろとあとじさりをする耕作人の思わせぶりなさま。柿の木から落ち、腰を打って動けないでいる山伏が、拙者は尊ばれるべき山伏だぞ、屋敷につれて行ってちゃんと看病せい、というわけですが、山伏をおんぶした耕作人の柿主、途中まで来てしたたかに山伏を放り投げ、さっさと去って行きます。ラボのほうでは、「赦してくれい、赦してくれい」と逃げていくのは柿盗人の山伏で、耕作人が「やるまいぞ、やるまいぞ」とあとを追うかたちになっていましたね。
なぶられて、カラス、サル、トンビの物まねをする山伏。しかしテクストの中には、タヌキやヘビ(くちなわ)を登場させるものもあるらしい。鳴くことをしないヘビをあの空間でどう演じるのでしょうねぇ。それも見てみたい。山伏とトンビと天狗のあいだにつながる古い習俗の観念(山伏が修行に修行を重ね、劫を経ると、末は天狗になりトンビになる、と信じられていた)についても、今後、研究してみたいし、「柿山伏」の話の原典を、日本の古典――「今昔物語」や「宇治拾遺物語」あたりから探ってみたいと思っています。
わたしにとって、狂言のおもしろさのひとつに、ふだん何気なく口にしていることばがヒョイ、ヒョイと飛び出してくることがあります。今回見た「東西迷(どちはぐれ)」のなかでは、一休禅師のことばとされ、わたしがいつもわが身の不明を侘び、韜晦していうことば
「へつらひて 楽しきよりも へつらはで 貧しき身こそ こころ安けれ」
とか、一遍上人の
「のこりゐて むかしをいまと かたるべき こころのはてを 知る人ぞなき」
といったことばが聞かれ、したり! という次第。
とっても楽しかったです。〔2006.10.05〕
☆
ラボのテクストとのちがいで、もうひとつ大きな点は、耕作人になぶられるまま、新米の山伏が真似る生きもの。サルと最後のトンビは共通していますが、ラボのほうがイヌ(鳴き声:びょう、びょう、びょう)に対して、今回見たものではカラス(鳴き声:コカア、コカア、コカア)が登場していること。そして、耕作人の脅しですが、ラボのほうは、ことばによるからかいで済ましているのに対し、今回見たものは、カラスには弓、サルには槍、トンビには鉄砲を向けるとして、ぐっとリアルです。そのことには、わたしはちょっと違和感を覚えました。ラボのテクストでは「おのれ飛ばずば鉄砲を持って来い、撃ち殺してのけうぞ」、今回見たものもほぼ同じ。室町の時代にあった鉄砲、しかもそこらの田夫がもつほどの鉄砲とはどんなものだったろうか、と。それに、サルの身ぜせり――手の指先でからだじゅうのあちこちを掻くしぐさ――が強調されていたことも目につきました。
生きものそれぞれのオノマトペがおもしろい。カラスは「コカア、コカア」と鳴きますが、江戸時代の笑話集でも、カラスは「子かぁ」と鳴きなしているのが見られますね。「かうたか」=買ったか、と聞きなしている人も。それに対して、トンビのほうは、「ひいろた」=拾った、だそうで、買った、拾ったといってオノマトペをおもしろがったのは、狂言のなかだけでなく、中世びとにはごく一般的だったと考えられます。
どうやら、物まねが多く、そこが見どころになっているこの「柿山伏」は、童話的で、狂言を目ざす人の稽古用の曲だったと思われます。それにつけても、なぜ山伏は、狂言の世界ではこれほどまでにからかいの対象にされるのでしょうかねぇ。ほかにもたくさんありますよ、山伏がめちゃくちゃになぶられる狂言が。
蛇足になりますが、柿の木について。わたしたちが目にする、いま栽培されている柿の木は、あまり丈が高くないですね。手を伸ばせば実が獲れる程度。せいぜい脚立があれば間に合います。ここから落ちてもたいしたケガにはならないでしょうが、昔の柿の木はもっとずっと高かったろうことは、覚えておいていいのではないでしょうか。
☆
「柿山伏」の典拠となっていると思われる説話をひとつ見つけました。「宇治拾遺物語」にある「実ならぬ柿の木」がそれ。
今は昔、延喜天皇(醍醐天皇)の御代に、五条の道祖神(さえのかみ)が鎮座されている所に、実のならぬ大きな柿の木があったが、その柿の木のうえに忽然と仏が現われなさるという事件があった。燦然(さんぜん)と光を放ち、さまざまな花などを降らし…略…
(現代語訳)
ここでは天狗の失敗談がいろいろ書かれています。この話は、天狗が金色の仏に化して、京の五条の道祖神のところに生えた柿の木に現じ、さまざまな霊異を示していたというもの。ところが右大臣の源光がこれを見破り、弓で地に射落とします。
あまりあまりにまもられて、しわびて、大きなる屎鵄の羽折れたる、土に落ちて、惑ひふためくを、童部ども寄り、撃ち殺しけり。
〔宇治拾遺物語〕
トンビ(屎鵄=しし、という漢字が当てられていますね)の翼が折れた状態になって土のうえにころがったところを、子どもたちがおもしろがって踏み殺した、といったすじだて。これが狂言につくりなされ、山伏が実のなっている柿の木のうえにのぼり、柿主に見つかってなぶられ、揚句にトンビとされて土に落ちる、というものにつくられた、と考えられます。
☆
道具だての何もない狂言は、ラボのテーマ活動に通じるところがあります。必要以上の物質に囲まれ、それに迫られ、束縛され、いつも追いかけられているようなわたしたちの日々の生活。しかし、ここには何もない。いや、何もないという自由さがあります。圧倒的な自由と空白。何もないから、無限の可能性があり、どんな表現もゆるされるという世界。扇子一本で演じられる古典落語などの話芸もそうですね。
過剰を去った空間の気持ちよさ! 機会をとらえ、できるだけ能や狂言をご覧になって楽しまれることをお薦めしたいです。(2006年10月06日)
☆
〔To: Hiromi~さん〕
ひとが本然にもつ怒りや惑い、疑い、欲望、妬み、恨み、弱み…といった感情や情念が、狂言の笑いのなかでみごとに表現されていきます。おかしみのなかで人生のどうにもならない哀感がにじみ出てきます。
今回のなか、もうひとつ、「
水掛聟
」。ここでは、深刻な灌漑の問題、農民の水争いが描かれていきますが、争っているのは、なんとまあ、舅と娘聟。田んぼを隣りどうしにするあいだで結ばれた婚姻であり、それがふつうの村社会であったことがわかります。争いはどんどんエスカレートしていって、しまいには鍬と鋤でめちゃくちゃな泥の掛けっこ、泥田での取っ組み合いにまでなりますが、ようやく仲裁に入るのが娘(嫁)。しかし、娘がどっちの肩をもつかといえば、父親ではなく夫のほう。そのへんの微妙な人間関係の味。コケにされた形の舅(親)が投げかける負け惜しみのことばは、「来年から村の祭りには呼んでやらないからなあ」という、ほろ苦いユーモア。めずらしいですね、これほど農民の土のにおいを感じさせてくれる狂言の曲は。(2006.10.09)
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