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夏休みで遊びに来た7歳の孫に、怪談、小泉八雲怪奇短編集(偕成社)の中から、「ムジナ」と「雪女」を、読んでやった。淡々と読む私の顔をときどき見ながら、声もなく、聞いていた。読み終わると、それまでためていた息を、一度に出すように、大きな息をふーっとはいて、私の顔を見て、ニコッと笑った。
8月、私は必ず思い出すテーマ活動がある。それは、「耳なし芳一」。
私の家の近くに、公園がある。今は、多少の遊具があって、芝生と砂利道になっているが、何年か前は、まだ整った公園ではなく、木立と大きな砂場があるだけだった。高学年の夜のパーティで、「耳なし芳一]をやろう、「あそこの公園でやろう」と言い出した。テープ(その頃は、ラボ機に電池を入れて)をもって、公園へみんなでぞろぞろ。
砂場で「耳なし芳一」をやった。砂場に座る芳一、そばに立つ侍。その頃の公園の夜は誰もいなくて、東は堤防、南は河川敷、西は畑、道を隔てた北側にだけ民家がある。公園内は真っ暗。そこに、「ほういち!」とひびく。笑うものなどいない。いやでも「耳なし芳一」の物語が心にしみる。終わって、ラボ・ルームに帰ったみんなは、それぞれの感動を胸に、しばらくは声もなく、ぐったりと座り込んでいるのだった。
それから、8月の納涼パーティとして、数年続いた。発表会に向けてだけでなく、日常的に、いろいろな物語を聞く雰囲気が浸透した状態が、このような楽しみ方も可能にしたのだ。
―――僕は、このテープをずっと前から持っていましたが、小さい頃、この話を、まともに聞いた思い出がありません。何度も聞こうとしたのですが、怖くて、途中でやめてしまったような気がします。それから、小学校高学年になって聞いたときには、難しくて意味がわからず、これもいい加減の聞き方でした。そして、中学、高校となり、最後までじっくり聞くようになり、意味もよく理解でき、興味がわいてきました。平家物語と一緒に考える物語です。―――T君(高3)
―――私は「耳なし芳一」は、好きではありません。気味が悪いからです。びわの音が、なんともいえぬ不気味さをあらわしていると思います。でも、大きい人たちの、テーマ活動を見てから、少し興味を持つようになりました。英語がゆっくりで、「ほういち」「へいけ」「げんじ」「びわ」「あんとくてんのう」「はんにゃしんぎょう」など、いっぱい日本語が出てきて、わかりやすく思いました。耳なし芳一が、体中に書いてもらった、「はんにゃしんぎょう」は、おまじないのことばだと、思っていたら、おばあさんが、「はんにゃしんぎょう、だよ」といって、お経の本を、見せてくれました。おばあさんが、持っていた本と、同じなので、びっくりしました。―――K子(小6)
ラボの「耳なし芳一」の本は、新しくなっている。以前の小型の絵の少ない本も、小さい子には興味を引かないかもしれないが、悪くないと私は思う。それだけ、イメージを固定しないで自由に持つことが出来る。
でも、新しい本は、またいい。LIBRARY NOTE が貴重だと思う。こんなに身近に簡単に、一流人のことばに触れられるとは、ラボは恵まれている。でも、絵本は、ハーンの研究者ではない人が描いている。それが非常に新鮮な感じにしていると思う。私は、上野憲男氏の「幻想と祈りの世界との強調」のなかでいっている、「私は私なりに、ハーンの宇宙観に触れた実感を微小ながらも感じえたことは、大きな喜びであった。私は常々、音楽、言語など、人間の内なるものの表現にも関心を持ってきた。また、西欧的なものと東洋的なもの、古いものと新しいもの、などの融合と反発を折り重ねながら、私自身の空間を模索しつづけてきたつもりである。」といったことばを頭の中で反芻しながら、彼の絵本をじっくりと眺めている。 |
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