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スサノオは重い話ではあるけれど、子供たちの中には、素直に入り、喜んで受け入れられた物語である。
ーーースサノオは、いい人なんだけれど、あばれんぼうなので、みんな、しんじていませんでした。天の国にいっても、らんぼうをしたので、あねがみが、石のどうくつにかくれて、空はまっくらになりました。それは、あまてらすおおみかみの話でしっています。--Y君・小3
ーーースサノオは出雲の国でヤマタノオロチを退治して有名です。ぼくは、小さいとき、おばあさんから聞いて知っていました。この話も、千吉が、おばあさんから聞いているようになっています。こうして昔から語りつがれてきたのだと思います。--U君・小5
ーーーといった文章が残っている。
ラボのスサノオには、霜月祭りがでてくる。現在に残る霜月祭りのひとつを見に行ったときの感想を、書いてみよう。
南信濃村、遠山郷一帯の神社で、12月、次々と日程をたてて行われる。重要無形民俗文化財に指定されており、私たちの訪れたのは、白山神社。今でこそ、アクセスが容易になったとはいえ、遠山郷は秘境の最たるもの。当時の深刻な状況が思いやられる。
鳥居の奥にある社は、神社というより、小屋というに近い建物で、そこに神様が祭ってある。
この日は、神社の土間に土でかまどが作られ、大がまに湯がたぎらせてあった。そしてその上には白い半紙を切って神座が飾りつけられてあった。すべて村人たちの手作りの神事であり、村を挙げての祭りである。
遠くから行った私たちも、今日一日、この祭りに参加させてもらうのだから、当然、志を寄進した。すぐ半紙に「金::円・**様」と貼り出された。そのような紙は、すでに神殿の土間の壁一面を埋め尽くしていた。それらは、「金::円」から「神酒一升」「いわし一箱」「わらじ五足」など、村人一人ひとりの協力と、この祭りへの気持ちがうかがえる。
祭りは午後から始まっているが、本番は夜。見物客も増える。特に面をつけた舞の始まるころとなると、神社いっぱいの人が集まる。そうして祭りは深夜まで続けられる。
8時ころ、この祭りのみに出されるという面が面箱から取り出されて、神前に並べられた。面を扱う人は、口に半紙をくわえ、息が面にかからぬようにするのだという。
面をつけるのは、大体お年寄りで、それを次世代のものが、提灯で足元を護り、笛と唄で誘導する。面をつけると、足元が見えないのだ。次々と面をつけた神(村人)が、かまどの周りで舞をする。そのうち、四面の舞といって、面をつけて荒れ狂う舞がある。それだけは、若者が威勢よく飛び上がり土間を駆け回る。それを、兄貴世代が受け止めるという、いろいろな想像を抱かせる舞であった。
私のそばに小さい子供のある家族がいた。大黒様が出てきた。
「ほら、おじいちゃんだよ。」と、母親が言う。小さい子は驚いた顔で大きな目を開いて見つめていた。大黒様は、舞いながらそばに来て、その子の頭をなでていった。
八百万の神を招いて湯を献じ、新しい年に生きる魂、命、の蘇生を祈るという古くからの祭りは、ダイナミックな盛り上がりと共に、何も考えないものにも、理屈抜きで、何かを伝える力がある。
村の長老は酒を飲み、面をつけて神(自分以外のもの)に変身して舞う。その全身に、これまでの人生、生きながらえた、喜びと責任がこめられている。次世代に伝えていかねばならぬ、長生きせねばならぬ、と思えば、それこそが元気の源である。若い世代は、それらを受け継ぎながら、囃子の声に、舞う足元に、長老たちの老いを含めた人生のすべてを感じ、自分たちの責任を思うのであろう。
この間中、神である村人が、笹の枝を湯につけて四方に撒き散らしていた。
蝶るいのこらず はう虫のこらず
お湯召せ お湯召すときは 雲とのぼれ
しずかなれ しずかなれ 精しずかなれ
深山の百千の精もしずかなれ
心の底から、全身で唱えることができた言葉であった。 |
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