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岐阜から東海北陸道で、一時間半。荘川高原の山小屋へ行った。岐阜の家の周辺では、桜も終わりかと思われるのに、たった一時間半で、雪の残る、早春の高原に着いた。ふきのとうがいっぱい出ていた。
夜、まだ小寒い外に出てみる。地面の雪と、葉を落とした木の枝が空に伸びているのを明るいと思うくらい、暗い。夏、数人のラボっ子と来たとき、木の葉や草の茂った森は真っ暗。その暗さにびっくりした。そのとき、太古の暗闇について想像し話し合ったことがあった。
こんなことも思い出しながら、先日来のスサノオの影響もあって、「国生み」が聞きたくなる。時々、また何回でも、聞きたくなるのは、格調高い日本語、落ち着いた語りである。
ラボの「国生み」の物語は、古事記の上巻、天地の始まりから、海幸山幸まで。それを、本当にうまくまとめて、ラボっ子たちのためにつくられたものだと、いまもって、この宝物に感謝する。
とにかく、神様の名前で言うと、アメノミナカヌシから、ウガヤフキアエズノミコトまでの話しになる。古事記では、もうどんどん出てくる神様の名前で、いやになってしまう。
それをーーーがらんどうがあった。
大地は、まだなかった。
がらんどうしかないけれど、まんなかはあった。
そのまんなかを見あげると、高いなあという感じがあった。
とうといものがあるぞという感じだった。
と始まる。パーティで、古事記(勿論現代語訳のやさしいもの)を読んであげて、「がらんどう?」・・・「この神様のことか?」「まんなか?」「どの人だろう、この神様かなあ」などと、わいわいやったことも思い出す。
また、「高いなあ」という感じは、どのように言ったらいいのだろう、と、何回もそこのところをみんなで言ってみた。また、「とうとい
ものがある」という感じの高さとは、どんな言い方をすれば、感じられるのだろう、と思った。格調高い文章も、文字だけを読んだのでは、何の価値もなくなる。
古事記を読んだ幾人かの高大生は、すごく面白いといった。私も面白いと思う。特に彼らの読みたくなったのは、ラボの物語にない部分の面白さだ。それもわかる。そして昔の人の想像力に感心した。日本人の祖先がたくさん登場し、いろんな事件を引き起こす、と考えれば、古事記の世界はロマンチックで、おおらかな世界だと思う。 |
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