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6月12日(月)今年もあきる野で「ベビーサイン」の講習会を行います。昨年とても好評だったので、同じ時期にまた今年もとお願いしたところ、手話通訳者の近藤禎子先生には快くお引き受けいただけた。今年も教育委員会の後援をもらうことが出来た。
日時 6月12日(月)10時から12時
場所 あきる野市中央公民館 和室
募集 親子50組(大人だけの参加も可)
参加費 1000円
たくさんの方に来ていただいて、赤ちゃんとの対話を楽しんでもらい、子育てに関心を持って支える方をも増やしていきたいと思う。子育ては一人で、あるいは、親だけがするものではなく、周りの環境全てが関わってこそ、と思うので、いろいろな面から子育て支援の輪が広がってほしいと思っている。その中でもことばと交流で青少年育成をしているラボテューターの私としては、赤ちゃんとの「ことばと交流」を育むベビーサインを、胎教の次に出会うコミュニケーションとして、伝えていきたいと思っている。
近藤先生に上京していただく貴重な機会なので、11日(日)に青梅、13日(火)に国分寺(いずれも午前中)でも開催する運びだ。
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3月にラボっ子のお父さんが亡くなられた。何年もの間、癌と闘い、子どもたちを見つめ、奥様を信頼し、家族で支え合っていらした。訃報を聞き、駆けつけたが、やることは全てやったと、穏やかに眠っていらした。家族も、支えきったと。
彼は画家である。今日の「人生まっとうした会」では、作品と、縁のある方たちが集まり、その生き様がしのばれるものだった。いつ頃、どんな状態、心境であったかを書いたものを拝見し、ああ、あのころ、ああ、あのころと思いをはせていた。ラボの合宿で、ラボっ子たちに指導してもらいたいと頼んでいた。実現の機会を待っていたが、かなわなかった。やるべきことがたくさんあり、また、治療の関係で体力もままならなかった。申し訳ないことを頼んでしまったと思っていたが、彼もそれを望んでいたと、実現できなかったことを残念に思っていらした。
去年の夏のおわり、娘のSちゃんの国際交流の親子面談。西洋医学で闘うことを選ばないと決めた頃だった。「すみません。家族全員で来てしまいました。」ああ、お父さんも来てくれた、と思って、胸が詰まった。弟のYちゃんの面倒をうちの息子に見させ、話をした。Sちゃんの国際交流は、お父さんの悲願であった。視野が広く、外国旅行も多いご家族だったが、ホームステイ交流にだす、ということについては格別のものがあるようだった。以来、書類から準備、語り合い、全てをお父さんが受け持ってくださり、お母さんは生活を支えた。
11月の親子オリエンテーションには、お父さんは来られなかった。その頃外出する体力はなかった。いいときもあり、肺の転移が消えたと、手を取り合って喜んだときもあった。この何年間か、私がラボっ子にやらせたいテーマ活動は、生きること、死ぬことに関わることが多かった。
Sちゃんに話していないこともある。私も慎重にことばを選ばねばならないのだが、うまくできたかどうか。今年になって、ラボで新年の抱負をいいましょうというときに、Sちゃんのことばが、それまでとは違う調子だったので、もしやと思って、お母さんに電話してみると、やはりお父さんの容態が思わしくないとのこと。Sちゃんの国際交流をどう支えていくのかを話し合った。お父さんへの義務感から、国際交流に行くだけは行こうとしているのが痛ましかった。事前活動が始まり、持ち前の前向きな積極性を取り戻したSちゃん。ラボのクラスでも牽引力になっている。ほっとしたのもつかの間、お父さんは旅だって行かれた。
今日の「人生をまっとうした会」には、ラボのお母様方も行ってくださった。私も合同練習の後半(小学校高学年以上)を大学生の長男と夫にまかせて、コンビニのおにぎりを口につっこんで駆けつけた。なんだかふらふらする。腹ぺこのせいかな。こんな時にお腹がすくなんてと思いながら、まだ残っていた会場の食事をそおっと口に運ぶも、つぎつぎと泣ける弔辞があって・・・・
私の仕事は、ラボっ子たちを全力で支えていくことだけ。お父さん、Sちゃんの国際交流、成長を見守ってくださいね。
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醍醐味なんて、おこがましいタイトルにしてしまったけど、マルボロの先生たちをご案内していたときのこと。ただ、ことばの意味を訳して伝えるのではなくて、相手がより理解を深め、楽しめるようにしたいと思う。もっと知りたいと思ってもらえたらうれしい。
マス釣りは、通訳なんていらない。自然の中でリラックスして充分に釣りを楽しんだ。その場で塩焼きにして食べた。なぜ川魚なのに塩味がするのか疑問に思っていたトッド。そこからハーブをお腹に入れたらおいしいよ、さらにベーコンで巻いて焼くとおいしいといったら、とても関心を持って、今まで魚なんてBBQにしたことはなかったそうだが、帰国したら、やるでしょうね。詳しく料理法を聞いていた。
滝へハイキングに行ったときのこと。その辺りには滝が幾つもある。龍の名が付いている滝の写真をさしてこれはなに?どういう意味?と訪ねてきた生徒がいたので、稲作、水、雨、滝、蛇、龍に関わる日本の考え方、民間信仰を説明することが出来た。国生みが心に深く根ざしているから、こんなことも研究した。日本の龍と、西洋の龍はちがう。ただ「龍」と訳してもその根にあるものを説明しなければ、なぜ滝に龍の名が付いているのか、考えが及ばない。そこに文学的、情緒的な意味合いが感じられて初めて、異国の考え方に感動できるのかも知れない。ジェイソン先生が、なぜこんなにたくさん滝があるのか、というので、急斜面が多いから、そして稲作と治水と信仰が関係していることも話したので、ご飯を食べるときも思い出すかも。そういえばアイスクリームは「玄米」だった。
お寺で、昔、木の葉に文字を書いて手紙にしたという大木を見た。よく見ると今も願い事が書いてある。モーリーン先生はいたく気に入ったようだ。ご主人のトッドは竹林の写真を撮っている。竹林は動物園か植物園でしかみたことがないそうで、種類がいろいろあることなど話していて、かぐや姫の話をかいつまんで話す。かぐや姫に去られて、帝がかわいそうだというモーリーン。つまり、竹の中から生まれたことよりそっちにひかれているのだ。かぐや姫が手紙と不老不死の妙薬を送ったという話をし、かぐや姫のいない世に永らえることはないと富士の高嶺に薬を投じたこと、それで富士は煙が立ち上るということを話したら、木の葉の手紙のことを聞いたあとでもあり、富士山も新幹線の中で見たことで、感動もひとしおという感じだった。
ね。ただ、あれはバンブーです、ドラゴンです。じゃつまらないよね。物語がことばと心にこんな奥行きをもたせてくれる。
経験も一つ一つが役に立っている。ジョージアのコーディネイターが来たとき、竹林を見て、自分の小さな笹の鉢植えもこんなになってしまうのかと驚いていたので、違う違う!と大笑いしたことがある。そんなことも話したら、早速モーリーン先生が生徒たちに「竹」についての講義をしていた。
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マサチューセッツ州のマルボロウ市から今年も6人の中学生がやってきた。あきる野市内の6中学の生徒宅にホームステイしている。先週の金曜日に到着し、月・火は2人一組になって3中学へ通った。我が家も去年、次男が受けてきてホストファミリーになったので、今年は「あきる野ホストファミリークラブ」のメンバーとしてサポートしている。ラボの国際交流の経験を活かし、今年のホストファミリーのためのガイドブックを作ってオリエンテーションに使ったり、滞在中はいろいろなことのお手伝いだ。月曜日の地区研の時に「来日者があまり食べない、咳をしているが大丈夫か、聞いてほしい」というメールが入り、夜電話で本人とも話したりした。
火曜日の朝から実際のサポートに入った。朝8時15分東中学の応接室に行き、マルボロウ・ミドルの女子生徒二人とこの中学のホストと会う。私は、ホストファミリーと来日者・学校の間のコミュニケーションでお手伝いする役目。もうひとり「あきる野ホストファミリークラブ」からサポートの人がつく。学校の方も新学期ということでわさわさしている。私たちは、あくまでサポート。生徒どうしの交流なので1時間目の終わりまでいて帰ることになっている。
ラボからもお手伝いに出ることになり、青梅のTテューターが火曜日の通訳に入ってくれ、私の次男のいる秋多中を担当してくれた。うちのパーティのラボっ子のお母さんにも頼んでいたのだが、帯状疱疹になってしまい、私たちで埋め合わせすることになった。Tテューターがとてもよかったと、「ホストファミリークラブ」の方からも感謝され、Tテューター自身もいい体験になったとのこと。次男もホストの子が困っていると助けてあげたらしい。
1時間目の終わりまでサポートして帰り、プレイルーム。家の中に入れないでいるSくん。「モーモーさんを見に行く」とだだをこねている。近所の牛舎。それじゃあと、2年前4-Hのジュディさんがウイスコンシンから持ってきたビニールの牛をふくらませて気を惹く。紙風船も動員。
お昼過ぎにNちゃんがきた。午後の幼稚園クラスまでお預かり。おトイレに入ってなかなか出てこないので見に行ったら、ブラシで便座をこすっていた。幼稚園クラスではピーターパン4話をやるが、人数が足りないので一人何役にもなる。
帰宅して冷凍の唐揚げをオーブンに入れ、焼ける間に、炊いておいたご飯に「桜ずしの素」を入れてちらし寿司を作り、スパゲティを茹でてオリーブオイルで和え、梅酢たこをぶつ切りにしてきゅうりと和え、何種類か漬け物の盛り合わせを作り、クーラージャーももって、急げ!
「ホストファミリークラブ」と「あきる野市国際化推進青年の会」主催のウエルカムパーティだ。長男、次男、三男とともに参加。今年は奮発して、あきる野ルピアのホールを借りたが、100人も動員することができたのでたすかった。私は総合司会。青年の会のメンバーがアトラクションを受け持つ。彼らは主に「マルボロ経験者」で、同窓会のような楽しみがある。大正琴の会の方たちもきてくれて演奏。スパゲティはパルメザンチーズと和えておいた。スパゲティ・唐揚げは一瞬のうちになくなり、漬け物が結構売れたのがおどろき。長男曰く「大正琴の人達だよ」長男はウエイターのような役割、次男は同窓会、三男はひたすら食べる。
ゲーム「震源地」やマルボロのCotton Eyed Joe、The Moose Songなども盛り上がり、最後はやっぱり「あきる野音頭」 市役所の方たちがインストラクターになってくれた。
翌日の水曜日はいわばミッドターム。学校には行かず、市のバスで市内観光。ホストの生徒たちも公休をもらってついてきた。8時半に市役所出発。養沢でマス釣りだ!あきる野の自然環境は素晴らしい。山の中の渓流にマスを放して釣るのだが、新緑に交じってまだ桜も、いろいろな種類のが咲いていて、山が本当にきれいだ。私も6匹釣った!釣れたマスをその場で焼いて一人1尾ずつ食べる。初め嫌だといっていた子がお代わりした。
佛沢の滝へ行く。ハイキングして滝つぼへ行き、お弁当を食べ、出店でソフトクリームを食べた。いろんな種類があってびっくり。私は「バラ」ジェイソン先生は「玄米」モーリーン先生はご主人の「マンゴー」を味見させてもらっていた。メアリ・エレン先生はなんだっけ。カップに一人分ずつ入っているものを機械にセットし、自分でソフトクリームに絞り出すというもので、みんな大喜び。
広徳寺に行く。主に科学の先生であるモーリーン先生の通訳をしながら歩く。小峰公園では滑り台やアスレチックに興じた。子どもが乗る、動物の乗り物(バネがついているやつ)に乗ってロデオのようにやっている。先生方と一緒におしゃべりしながら遠くから見ていたら、マリアが落っこちた。「でも8秒はクリアしてたね」と言ったら大ウケ。(ロデオでは8セカンドというルールがある)
市役所にもどり、屋上からあきる野を展望したり、議場に入らせてもらったりして、今日のプログラムはおしまい。迎えに来たホストマザーたちがマスを持って帰っていった。
明日からまた学校。私は五日市中の担当だ。ああ、疲れた。ちょっと寝よう。30分寝て、元気を取り戻し、中高大生クラス。晩ご飯?適当。
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中国交流に参加していた次男三男が帰国。出発の日はジェフ・キング氏のワークショップに対応していて見送れなかった。夫が成田まで送っていってくれたのでよしとしていたのだが、その後彼らの部屋を長男と二人で掃除したら(うわっ!の連続だった。禁断の地)準備万端のはずの三男のホストファミリーインフォが机の上に、ウインドブレーカーがランドセルの中に入っているのを発見して、ああ、やっぱり・・・と情けなかった。
帰国の日は、ちょうど長男の大学の入学式で、保護者への説明会もあったので、そちらへ行っていた。次男三男には帰りの電車賃を別の場所に入れさせ、自分たちで帰ってくるように指示していた。帰国便が成田に到着するのは2時過ぎなので、出てくるのは3時過ぎ、すぐに乗れたとしても快速で東京まで行くと最速で4時半、そこから中央線で拝島まで、まあ、6時だろう。携帯に電話くれれば、途中で待ち合わせられるかも。
入学式では、なんと北関東支部のAテューターにばったり。あちらは末のお嬢さんが入学とのこと。よろしくお願いします。びっくりした。あの人数・混雑の中でよく会えたもんだ。帰国した次男が要領を得ないことを言ったらしく、心配した財団・団長から私の携帯に連続コール。やっとかけ直すと16:03に快速エアポート成田にのせてくださったという。
とぷうが突風になって暴れまくり、大変な日。おかげで武蔵野線も大幅に遅れてしまい、気を揉んだ。立川でも拝島でも次男たちがいないかと探しながら、急いで帰宅。もう7時だ。変だな。この時間に電話がないとは・・・・絶対あっちの方が早いはず。家の周りにもいないし。(なくしてくると困るので鍵をもたせていなかった)
やっと電話! 帰ってきたか!と思ったら、「あ、今、久里浜」 えっ・・・・聞き返す声が3オクターブくらい上がってしまった。成田空港第2ターミナルから快速にのり、一時間後に東京駅で降りるはずが、寝てしまったそうで、なんと終点の久里浜(神奈川県だよ。三浦半島の先)まで行ってしまったのだそうだ。そこから「上に上がって行く線路あるよね」などとほざいているので「だめ。東京まで戻って中央線に乗りなさい。慣れないことしないで、いつもやっていることを確実にやりなさい。」ああ、あきれたよ。1時間で済むところを3時間近く乗って・・
心配しながら待つ。どこかへ行くたびに(何かに参加するたびに)新たな伝説をうんでいる次男だ。事務局に有名なのもわたしのせいじゃない(と思う)
もう10時。やっと2回目の電話がかかってきた。「拝島についた。しゅんちび先に行かせたから。」えっ?「だからあ、もう電車でるとこだったから、先にのせた」ええっ?あんたはなんで乗らなかったの。「電話かけるためじゃん!拝島で電話しろっていっただろ」卒倒しつつも・・・なんで別行動にしたのよ!これでもしまた寝てて東秋留で降りなかったりしたらどうするの!なんで別れるのよ!だいたい今電話かけてきても電車が先に出たんなら私が迎えに行くのが間に合わないんだよ!それに結局あんたが来るのを駅で待つことになるんだよ!とにかくもう出たんなら行くから!
東秋留に急行すると、真っ暗な駅前に誰もいない。降りなかったのかな、どこへいっちゃったんだろう・・・と、大きな荷物をひきずって三男が駅の反対側から歩いて来るではないか。荷物は往復のお金を払ってあるのに、送らなかったんだろうか。しかもなんで弟にすべての荷物持たせるかねえ・・・三男は先に行けという次男の言うことを聞いて乗ってきたが、トイレに行きたくなって駅の向こう側にある公衆トイレにいってきたところだそうだ。ああ、だから二人一緒にいればいいものを。
次男を待つ間に説教。次男が到着してさらに説教の嵐。荷物は、次男が自分の予備バッグを送ったのだそうだ。なんと浅はかな。最初の北京と最後の上海が二人一緒のステイということもあり、大きなラゲージ(キャスター付きボストン)に二人分の荷物をいれさせて送りだしたのに。
寝ていて乗り過ごしたことや荷物のことはおろかな失敗だ。しかし許せないのは、弟と離れたことだ。久里浜にいると聞いたとき、無事に帰ってくればそれでいいと思った。二人が安全なら。それが別行動してどうする!もう夜遅いんだぞ!今の今まで拝島で電話する意味がわかっていなかったとは、情けない!
荷物の中から、割れないように段ボールで「私が」パッキングしたおせんべいやらお菓子が出てきた。荷物の半分はそれだ。おみやげだったのに・・・ああ、なさけなや・・・
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百二歳の祖母がいる。このお彼岸にはうなぎ丼を自分で食べていて、叔父たちを驚かせていた。突然「反応がなくなった」と慌てた母が、救急車を呼んで近くの病院へ運んだ。「百二歳ですか?!」と消防署もびっくりで、救急隊員だけじゃ人手が足りないかも知れないと消防車まで来てしまい(救急車に乗れる人員が限られているそうで)近所中おおごとになってしまったらしい。ところが検査してもどこも悪いところがない。診察した若い医師は、困惑きわまりなかったそうだ。ずいぶん時間がかかった末にやっと入院させてもらえた。
一日中、うつらうつらとして、呼びかけに反応しないこともあるが、ゆめうつつのうつつの時にはずいぶんはっきりしている。長男がお見舞いに行ったとき「東京から!」と言い、車いすで食堂に行ってご飯を食べることもできたと、長男がびっくりしていた。そういうときに会えてよかった。
私も昨日今日と、おばあちゃんに会いに行ってきた。車いすで食堂へ行くことはなかったが、もうすぐご飯だよ、と言うと「入れ歯」と言い、指で開いた口を指し示す。食事が来ると、「薬」と催促。食べ物をスプーンですくってあげると口を開ける。いらなくなると「もうごちそうさま」と言って手を合わせてしまうので、「もうちょっと食べてよ」と言って、結局全部食べてくれた。薬を手のひらにのせてあげると、ひとつしかないといぶかしげにしている。もっとたくさんあるはずだというのだ。朝は3つ、夜は1つらしいのだが、不服そうにしていた。カプセルを指でつまんで、自分で口に入れている。
同じ病棟に看病で来ている八十代のおばあさんが、うちの祖母が明治三十七年生まれと聞いて「私のお母さんと同じ。よう生きとってくれたね。よう生きとってくれた・・・」と涙ながらに手をさすってくれたそうだ。
たんがからみやすく、えんげしにくいので、ときどき吸引してもらい、食事は流動食だ。いま何か言ったかと思うと次の瞬間にはまたうつらうつらしている。丈夫な人で、どこも悪いところはないそうだが、こうやって、老衰していくのだろう。どこも悪いところがないと入院していられないらしい。そこで長期療養の分院へ移ることになりそうだ。そこも家から近く、新しくてきもちがよさそうだ。
百二年生きてきた間には、いろいろなことがあっただろう。祖母は自分の戒名と実家の家族の位牌に自分の居場所を予め用意している。実家のお墓も守ってきた。その位牌とお墓をもって、私の祖父のところへ後添えにきたのだ。祖母には忘れられない人がいる。祖母はその人のところへいきたいのだ。祖父思いの私には釈然としないものがあったが、マジソン郡の橋、ヨン様なんだ、きっと。そう思ったら涙が出てきた。
とんぼ返りの新幹線の中で、そんなことを考えていた。
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40周年記念ワークショップのために来日されたジェフ・キング氏。まず最初のワークショップが25日に町田で、また26日に八王子で行われた。八王子でのワークショップの通訳を担当することになっていた私は、土壇場通訳ではちょっとつらいかな、と思って、町田へ下見に出かけた。頭の中は真っ白。ジェフの話を聞きながら、ああ、ごもっとも。でも思い出すのは愚息たちの顔。ああ、物事はうまくいかない。
この日は息子二人を中国に送り出す日で、当然直前まで母は忙しい。しかも、私の方が早く家を出るのだ。泥縄泥縄で準備し、寝たのは3時頃。翌朝は7時起きだ。うちから町田まではかなりかかる。
町田でのワークショップは、準備が行き届いた感じで、通訳も立派だった。わたし、明日できるかしら。滞りなく終わり、お昼は会食か、と思ったら、私が忙しいと思われたらしく、「どうぞ」とジェフを引き渡されてしまった。ロイヤルホストでジェフと二人でお食事して、府中のSテューターのお宅へむかう。初め私がホストする話があったのだが、息子たちの出発や祖母の入院などでごたごたして、とても掃除片づけに手が回らない。Sテューターがして下さることになり、せめてお迎えくらいはと、町田からお連れした。ロイヤルホストは、ジェフ曰く「アメリカのデニーズみたいだ」 でしょう?だからお連れしたの。メニューも写真入りで、わかりやすい。隣はレッドロブスターだったが、これはアメリカにもあるので。ジェフはステーキ丼、私は町田店限定メニューの和風ステーキ定食にした。私の方について来た豆腐の揚げ物やカボチャの天ぷらをジェフに分ける。豆腐が揚げてあるなんて信じられないと言うジェフ。また、カボチャはアメリカの水分の多いパンプキンとは口当たりが違うのでトライしてもらいたかった。以前ステイしていたアイダホのインターンのペギーは日本のカボチャが好きだった。
Sテューターのお宅にたどり着く。途中の会話が楽しかった。ジェフはこの夏日本からのホームステイを受け入れる。11歳になるお嬢さんは初めあまり気乗りがしないようだったが、だんだんその気になってきて、今回ジェフが日本に行くと聞いて、「帰りに連れてくるの?」と言ったそうだ。初めての受け入れ。そこは私、元4-Hコーディネイターですからね。いろいろアドバイスを求められ、彼も大いに納得するところがあったようだ。Sテューターのお宅は、ここでラボをするの?と信じられないくらい、ぴかぴか。うちで受けなくてよかったあ~。
急いで帰宅、ラボのクラスがある。直行するはずだったが、もしかしてと思って家に行ってみると、長男が寝ている!たたき起こして連れていく。次男三男は中国交流、長男まで休んだら一体どうなるの?ラボのあと、長男と二人で焼肉屋へ行く。人数少ないときに行かなきゃね。結構かかってしまった。このところクライシスの長男との関係。長男は、他の二人がいないときや問題を起こしているとき、ラボや家族、親戚でトラブルがあるようなときには張り切る奴だ。起きてこないのは許し難いが、そこで突き放してしまったら終わりだ。
夜、翌日の八王子ワークショップの準備をする。通訳用のスクリプト(英語だけど)が送られてきていた。ああ、だから今日の通訳はあんなに上手だったのか。でも私ったら、英語で聞いてしまってメモも英語で取ってしまった。しまった・・・自分でわかっていてもしょうがない。訳が肝心なのに。また、寝不足だ。
今朝、また長男をたたき起こして、連れていく。PCのセットアップを頼むという口実で、実は彼にも参加させるため。ああ、あいつを起こすだけでポリープができそう。車の中で「原稿読んで。練習したいから」「やだよ」「じゃ、信号見て」止まるたびに原稿を読み、いくつかのことばについて、いい訳語を考える。意味がわかっても、ぴったり来る日本語がなかなかない。
さて、本番を迎え、昨日のワークショップを踏まえていくつか改良点。まず、待っている間に国際交流のビデオを流す。オハイオで撮影した部分が多いし、これからホストファミリーを経験する彼にもとてもいい。
ところが、いざとなったら、PCが動かなくなってしまった!と長男が言う。ええっもう開始時間なのに。会場の事務室に救援コールするも解決できず。プランBプランCなど、いろいろ急遽作り出したが、結局会場の事務室からPCを借りてきて、セットアップしなおし、30分遅れで開始した。ああ、死にそう。
ところが、ジェフが、昨日とは違う話をする!つまり原稿通りやらないし、何となくのんびりといろんな話を混ぜている。昨日二人でした話などを。私は、時間は大丈夫なのかしら?本題に関わりあるようにうまく訳さなければ、どこだったっけ、そのエピソードは、なんて思っているうちにロストしてしまったりして、ええい、もう、やめた。土壇場通訳でやろう。原稿を見るのはやめた。顔がこわばっているのを感じる。ああ、サイテー。
お昼ご飯に移動。今日はカンザスのコーディネイター、メアリー・ケイも一緒だ。このひと、面白い。カンザスのアクセントで、しわがれた押しの強い声で話す。聞いているだけでたのしい。長男の証言によると、レストランの入り口(地下に階段で下りるようになっている)で、一瞬他の人達を見失ってしまい、「We are looking for a GAIJIN and women」とそのドスの利いた声でロビーの従業員に尋ねたとか。
午後、ジェフを高幡不動にお連れする。五重塔も鳴り龍あるし、テューターまりりんのファミリーテンプル。ちょうどいいので、お線香などももってお墓参りにいった。そこからまたSテューターのお宅へ。ふた晩めのホームステイだ。ジェフは家の周りをひとりで散策したいというし、SテューターとNテューターは地区の発表会のスライドプレゼンテーションの用意をしている。私はよそのお宅なのに、なんとリビングで昼寝してしまうという豪傑ぶり。しかもSテューターのご主人が台所でごちそうをつくっているのに。
ご主人心づくしの手料理をたっぷりごちそうになり、楽しい話はつきなかった。ジェフは明日も早起きで、川崎でワークショップだ。ほとんど白髪で、お嬢さんといると孫と思われる、と笑っていたが、実際は若い。ああ、自分が年を取っていくことを実感させられる。毎年、4-Hのわかものがやってくる。同じような、ティーンエイジャー。自分だけが年を取っていく。毎年同じような年代のシャペロン、でもいつも私より10は年上だったのに、ジェフは私の世代。ああ、逆転するときが来るのも時間の問題か。
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春の嵐。韓国でもこんな夜があったことを思い出した。韓国体験談の続編です。皆さんに先立ってソウル入りしたのは、3日の金曜日。ひどい花粉症で東京から成田空港までの快速もグリーン車に乗る。(ドアの開閉の影響が少ないから)♪一人旅なの、私気ままに飛行機乗るの♪ デューティフリーで普段手が出ないブランドものの化粧品(トラベルキット、ポーチ入り)を買う。韓国までのフライトはあっという間。機内食が出たかと思うとすぐ回収しに来る。機内での飲み物はいつもジンジャーエールを頼む。「少々お時間がかかります」「サイダーでいいです」空の上だ。お時間がかかったら、出てくるのか?忘れられてしまうに違いない。空いている機内。携帯に取り込んでおいたブレーメン(韓国語)を聞きながら小声で練習する。
ソウル、インチョン空港着。ウオンに両替をし、コリアナホテル行きのリムジンバスに乗る。私の泊まるニュー国際ホテルはコリアナの向かい側だ。バスが着き、荷物を降ろすと、コリアナのドアマンがサーッとドアを開け荷物を取りに来る・・・のを断って、向かい側のニュー国際(ククチェ)に向かう。片側6車線くらいある大通り。すぐむかいがわなのに、横断歩道がない。荷物を引きずり、大回りしてやっとたどり着く。
夕方だが、出国前に成田でお昼を食べ、機内食を2時に食べたのでまだお腹がすかない。それじゃと、今日のうちにエステに行くことにする。エステの車がホテルまでピックアップに来てくれ、終了後はレストランに送ってくれるというのを利用することにした。韓国のあかすりは有名。体験しない手はないだろう。汗蒸幕などのサウナ3室と人参風呂、ゲルマニウム風呂、あかすり、全身マッサージ、顔マッサージ、キュウリパック、泥パック、肩こりマッサージ、足マッサージなどなど、基本コースにオプションをつけて、終わってみると11時過ぎ! もう帰ろ。顔がぱーんとしている。夕食は、エステでもらったゆで卵2個。機内食のパンをとっておけばよかった。
翌4日、チャングム紀行の始まり。市庁駅から地下鉄に乗る。乗客の顔は、うちの町内会のメンバーみたいなのに、話す言葉がちがう。不思議な感じ。終点で降りる。ハングルと格闘しながらバスに乗ってMBC撮影所へ。撮影で作った宮殿などがチャングムテーマパークとして残されている。ここの建物は本物より小さめに造られていてその方がカメラの収まりがよいらしい。チャングムの世界を満喫し、スーベニアショップで買い物する。チャングムのハイライト・NG集などが納められているDVDや、死にゆくお母さんに最後に食べさせた野いちごとチャングムの涙をストラップにしたものなど、関連グッズを手に入れる。
いったんホテルに荷物を置いたあと、今度は、昌徳宮の日本語ガイドツアーの最終組に参加。事前に勉強しておくと、実際に見たときの感慨も大きい。国際交流もこうでなくっちゃ。ここもチャングムの撮影に使われた場所だ。ここにも日本軍が侵略したことがいたたまれない。文化的にも歴史的にも、大きな影響・遺産を受けているのに、日本が国家として侵略したのが何回もあるわけだから。
歩いてインサドンというショッピング通りに行く。竹下通りか鎌倉の小町通りか・・・みたいなおもしろいところ。寒い!ショールを買った。300~400円くらいだ。韓国ならではのおみやげものもいっぱい。ヨン様グッズも。ラボっ子たちにストラップ、お母さんたちにシルクの小袋などを買う。
風雨が激しくなり、屋台もおしまいになった。歩いて明洞に向かうが、雨風がすごく激しくなり、タクシーをつかまえてホテルに帰る。頑張るぞと気合いを入れ、傘と合羽を持ってタクシーでもう一度明洞へ。ソルロンタン(牛肉スープ)が食べたかったので。帰りはホテルまで歩く。ホテルの部屋に湯沸かしがないので、スターバックスでラテを買って帰る。
5日は、今度はソウル南の水原(スウオン)へ行く。この日は集合の日なのであまり時間がない。シャトルバスで韓国民族村に行く。ここもチャングム撮影に使われたところだ。両班の屋敷や、民衆の家、村の様子、薬屋、市場などが当時のままに再現されている。結婚式の様子を再現した催しを見たり、市場で昼食をとったりして満足して帰る。地下鉄のシートが鉄だ。寒い。よく物売りがくる。前夜、地下道を歩いていたとき、ホームレスたちが段ボールで家を建てる場面に遭遇した。日本のようにずっとそこに寝ているのではなく、日中はどこかに働きに行っているようだ。するとこの物売りたちもそうなのかな、という気がしてくる。結構売れている場面もあり、そのプレゼンテーション能力に感心してみたり・・・
ホテルで荷物を受け取り、タクシーで韓国女性開発院へ向かう。行ったはいいものの、日曜日で誰もいない。携帯で韓国ラボ事務局の許さんに連絡を取り、守衛のおじさんに連れていってもらって中へはいる。すでに到着したグループは南大門市場に出かけているとか。U テューターの荷物もある。この宿泊施設をみて、私を恨んだろうな・・・京王プラザを定宿にする人だもの。
研修期間を終え、コリアナホテルで迎える8日。Kテューターたちと景福宮の国立博物館へ行く。すばらしい。今までの紀行でわからなかったこともここで教えてもらえた。このあと東大門市場の方へ行く。このあたりは昔日本人がたくさん住んでいたところ。侵略した事実とここで青春を過ごした方たちへの思いが混ざり合う。ホテル近くに戻ってマントウを食べに行く。「地球の歩き方」の取材が来ていた。
午後インサドンへ行く。私はこれで4回目のインサドンだ。Uテューターも相当気に入ったらしい。宮廷料理を食べに行く。このあとU テューターたちを連れて再びエステへ。私はサウナはやらず、足マッサージ、顔エステなどだけ。エステ台で熟睡した。
9日、再び水原(スウオン)へ行く。今度は城郭市街だ。宮廷があり、ここはこぢんまりとしていてすごくいい。もちろんここもチャングム撮影場所だ。お昼に冷麺を食べた。スープに氷がはいっていてびっくり。ソウル市内にもどってロッテデパートに行く。こことヤング館で閉店時間までがんばって、それから焼き肉を食べに行った。カルビだ!いろいろ食べまくったけど、やっぱり、これが最高!
10日、朝早くリムジンバスに乗る。インチョン空港のディーティフリーで、また少し買い物。ヨン様(の実物大写真)があっちでもこっちでも店番している。買ってやらにゃー。帰りの飛行機は満席だった。観て、歩いて、食べて、うーん、満足満足。
ほんの入り口の韓国体験。それでも、よくやったと思うのは、準備していったおかげ。帰国後テレビで韓国語が流れたとき、「なつかしい!」と思ったもの。あの響きが。もし、何の準備もなく、ただ物見遊山で行ったとしたら、こんなに吸収できなかっただろう。帰国後すぐに担当している事前活動があった。フレッシュな感動をラボっ子たちに伝える。ことばのスイッチが入る体験は、やった人にしかわからない。だからみんなも、頑張っていくんだよ。
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ラボっ子たちが事前活動でテーマ活動を準備して、ライブラリーの聞きこみを頼りにホームステイに行くように、私の韓国交流もラボならではのものだった。ブレーメンの韓国語。私の役はかかし。ずっと聞きこみを続けて、なんとかCDについていけるようになったものの、覚えきるところまで行かないまま、飛行機に乗ってしまった。私は皆さんより2日前にソウル入りしたが、飛行機の中でもホテルでも携帯電話に吹き込んだブレーメンを聴き続けて・・・・(他のメンバーより2日前にソウル入りして、帰国も2日後。感慨深い韓国紀行はまたあとでゆっくりお話しするとしよう)
5日の日曜日、皆さんがソウルに到着。韓国女性開発院にて合流した。夕食後、交流に花が咲きそうなところを、「頑張って」テーマ活動の練習。全国から集まった個性極まる名うてのテューター方が、テーマ活動によってひとつにまとまるあたり、さすがラボ。目的がはっきりしているのがやりやすい。ラボっ子たちもこんな風に成田に集まってやるんだろうな、と思った。練習はたった一度しかできず、物足りなさが残る。あんなに練習していったのに、私はかかしのセリフがちっとも出てこず、なんとも申し訳ない有様。どうしよう、かかしは私一人しかいないのに。これじゃあ、人に見せられない。
宿泊部屋に戻って、後半のナレーションの方と一緒に練習をつづける。とにかく、練習する。発表までまだ2日ある。がんばれえ。もうひとがんばり。
6日。朝、ホストのキムさんが迎えに来て、私とU テューターは、二人でキムさんのお宅へ。初めてお会いするキムさん。どんな方なのだろう。車の中でいろいろ話しかけるが、話題がつながらない。うーん、ビミョー。(と顔を見合わせる)ラボっ子の心境もこんなんだろうか。キムさん宅で荷物を降ろし、おみやげなどを渡して、話しかけるが、やっぱり、ビミョー。どうしよう。どこへ行きたいかと聞かれ、日常生活を体験したいから、スーパーに行ってみたいというと夜中でもやっているから、昼間は行く必要ないという。ラボパーティ訪問は3時からだそうだ。キムさんはテューターを引退されていて、訪問するのは別のパーティだ。
出かける場所が決まり、車に乗って道に出たところで、キムさんの携帯に電話が入り、行き先が変わった。どうもホスト何人かで連絡を取り合っているらしい。いいです。どこへでも、連れて行かれましょう。お世話になります。国際交流国際交流(と唱える)
キョンボックン(王宮)へ行く。ここは行きたかったところ。なのに、他の人達と合流するために超特急。もっと見たいのに・・・ほとんど待ち合わせ場所へ行っただけで、お昼ご飯の場所へ移動。国際交流国際交流・・・お昼は、ここも行きたかったサムゲタン(ひな鳥のおなかに米や高麗人参を詰めて煮込んだもの)のお店。でも、なんとなくそわそわしている。一人のホストの方が、車が故障してしまったのだ。その後の話は、聞くも涙語るも涙(聞いている方は抱腹絶倒の涙だったけど)国際交流国際交流
パーティ訪問。ホストとは別のキムさんというテューターの出張パーティを訪問。4歳から7歳くらいのキディさんたちのパーティにおじゃまして、楽しくご一緒させてもらう。Sing Along, Dance Alongというソングバードをする。お話しはだいこんとにんじんとごぼうの話。自分で描いた絵を持ってリレー式にすがたりするような感じ。くじ引きをして日本から持ってきたお菓子をみんなにあげた。キムテューターは日本にも来たことのある方で、日本語も上手。人当たりもとても良い方だった。
ホストのキムさんのお宅へ帰る。夕食のお手伝いをして、少し接近。キムさんは一人暮らしだ。食後、私はブレーメンの練習をしたいとU テューターに相手になってもらい、キムさんにも教えてね、と言った。初めは、私たちだけが二人でやっていたのだが、そのうちにだんだん、キムさんに熱が入ってきた。キムさんは現役の頃ブレーメンを発表したことがあるのだ。テューターの顔になってきて、なんとかこの、出来の悪い生徒を人前に出せるようにしなければ、という使命感に燃えだしたらしい。演技指導というか、激しくなってきた。瀟洒なマンションの一室で、「絞首刑!」だの「どろぼう!」だの「オバケが窓からやってきた」だの、大丈夫なの?と私たちが心配するほど叫び始めた。洗い物をしながらでもあるので、がちゃがちゃ、力も入っちゃって・・・
やっと、まあまあオーケーが出るようになると、いつのまにか、キムさんがすっかりうち解けていて、「仲間!」という感じになってきた。夜のスーパーへ買い出しに出かける。すっかり仲良くなった。
翌日の発表。キムさんが心配そうに見守り、時には声までかかるなか、無事かかしをやり終え、キムさんと抱き合って喜んだ。一緒に発表したテューターの皆さんも満足げなようす。やっぱりテーマ活動なかりせば・・・という具合になったね。そのあとのテーマ活動研修では、日本のテューターからいろいろ伝授するものがあり、韓国のテューターが「韓国だといかに言葉をいうか、がポイントなのに、日本ではどういう動きになるのかがポイントになっているのがおもしろい」という感想がでた。どういう心の動きで、どういう動作になるのか、だからこの言葉が出るのよ、という具合だ。
韓国ラボのSADA(ソングバード)は、動きが激しくて、ついていけなーい・・・と思いながら、皆さん若い若い。一人でおどる動きで、日本のラボのようにお互いのコンビネーションでできあがるおどりではない。Why are you panting so hard?のセリフがふっとでてきた。
韓国語の素養はほとんどない私が、1週間の滞在の間に、わずかな言葉をフル活用して、それでも「韓国語できるんですね」「発音上手ですね」などと言われたりしたのは、聞き込んで行ったおかげ、そして、テーマ活動を発表するという目的があったおかげ。去年の中国交流では、ここまでは聞き込まなかった。ほんの入り口ではあるが、聞き込んでいったおかげで、絵空事のセリフやカタカナのあいさつがにわかに本物らしく変わっていくのを体験することが出来た。「スイッチが入る」体験が出来たわけだ!これぞラボっ子体験。言いたいことが韓国語ではなく、スペイン語や英語のセリフで思い出し、苦笑。
ラボっ子たちが事前活動にテーマ活動をやっていく意義。ああ、もう言うまでもない。全国から集まった初対面の参加者同士が、一瞬にしてチームにまとまる。その子のバックグラウンドをシャペロンが見抜く。発表するのだから、すがたりするのだから、と一生懸命やってきたことが、現地でふっとスイッチが入る体験を、もし、しないのならば、ラボで行く意味がない。そして、この準備をホストが認めてくれて、肩入れしてくれるとお互いの距離がこんなにも縮まるのだ。一生懸命その国の言葉を言おうとしているのだもの、かわいくないわけがない。こんなに準備して来てくれたんだ、と思うのですね。
素っ気なかったキムさんが、最後に家を出る間際に靴下を一足ずつくれたのも、何かしてくれたくなったんだと思う。
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テューターの韓国派遣ツアーで、行ってきます。ソウル現地集合解散なので、この際興味のあるところにいってみたいと思い、早めに現地入り、遅く帰国することにした。したはいいものの、やっぱりそのスケジュールのツケは自分にまわってきて、いつものことだが「何でこんな大変なこと始めちゃったんだろう・・・」と思いながら「でもいつもそうやって乗り越えてきたから・・・」とも思い、準備している。
ところが問題続出で、母であり娘であり孫でありテューターである身にはすんなりとはいかないことがたくさんあるのだ。(この際「妻」はおいといて・・・)まあ、行く前に勃発した方が、ましだったのかも知れない。実家に送って母と祖母の対応をさせるつもりだった長男も自宅で弟たちの面倒を見ることになり(こちらの方が急務になって)いろいろ書き置きして、言い含めた。
別件で「オハイオから4-Hのリーダーが来日するそうなんだけどね」と夫に言いかけたら、耳をふさいでいる!見越しているな・・・彼がこれからの一週間をどうのりきるか、しーらないっと。長男も「おれたち生きていけんのか?」なんて言っている。ご飯は三男が炊けるし、生協もくるから、なんとかしなさい。寝てちゃ役に立たないんだよ。集金もくるよ!
韓国で発表する日韓ブレーメン。私はかかし、ということになっているけど、これがなかなか覚えられない。何とかCDについていけるようにはなったけど、覚えるところまではね。携帯に吹き込んで、移動中も聞くしかない。英韓で聞くと、ああ、英語って何て易しいんだろうと思う。
まだ韓国語は、ラボっ子の頃から少しは聞いていたからまし。中国語は全然耳に入ってこなかった。ラボっ子もこんなふうなんだろうなあ。私が韓国語ブレーメンを聞いていると、三男が中国語を入れてくるので、「こっちが先!」とお願いしている。どうしてこんな「まだ意味をなさない音」を覚えられるのか・・・みたいなことを繰り返し繰り返しして、入っていくんだろうなあ。そういえば英語の時もそうだった。私の「イエスタデイ・ワンスモア」は、すごい芸術作品だったなあ。うえないわじゃんがいりすんとぅだれいでぃおう・・・これと同じことを今韓国語でやっています。でも、全てに母音がある日本語で表記するのには限界があり、また韓国語の方が音が多いので、とても書ききれないのだが、それでも似たような音を聞き取っては書き、聞き取っては書きして、なんとか。
ブレーメンだけでなく、ラボテープのワフの韓国語を聞いた。こうやって国際交流に行くのがラボなんだな~。長い年月聴き続けた物語だからこそ、身になじんでいる言葉が知らず知らずあって、それがふっとでてくるのですから。以前韓国から男の子を受け入れたときも、ふっと出てきたのが「パリパリ」早く早くという意味。そうだった、と思って夕食時にワフをかけたら、おとなしいジュンキがくすくす笑って、だんだんうち解けてきた。中国のハオくんもしかり。ライブラリーが私たちを世界とつないでいる瞬間だ。
そして、国際交流で花が開くのも眠っているライブラリー。私も何度助けられたか・・・アメリカでも、フランスでもスペインでも。それに、今までただの音だったのが、ぐっと近づいてくるということもあるので、中国などはそこで花が開くまではいっていなかったけど、意味のない音ではなくなってきた。韓国も行ってみれば、どう言語的にかわるか、が楽しみなのだ!今年担当している事前活動のみんなにも言える。私もみんなとおんなじだよって。
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