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東京駅で新幹線から中央線に乗り換えようと乗り換え改札口をでたとき、私の後ろを歩いている三男のとなりに陽気な外国人が。三男を見て、ハローと話しかけています。おや、どうなるかな、と思っていると、三男が、はにかみながらハローと返しています。
You speak English?
Yes.
Oh, do you? Really, good! What's your name?
Shun Kato.
What?
SHUN KATO.
I see! I am a Bragirian. Haha, Play soccer!
ふうん。舜は、自分で英語が話せると思っているんだ。
三男の舜は、2歳から5歳までアメリカで暮らし、今はすっかり日本人の2年生の8歳。
アメリカに行ったときは、英語日本語の感覚はまだない。渡米後1ヶ月で保育園に入り、週に5日、朝8時から夕方6時まで英語の世界。もちろんお友達も英語とはまだ呼べない代物だったかも知れないが。保育園、プリスクール、キンダー、そしてアメリカ人の子どもたちと同じように一年生になった。その後帰国。日本の幼稚園の年長クラスを半年経験し、日本の小学校の一年生になり、現在に至っている。
日本に帰ってから、新しい環境になれるのも早く、新しいことばもどんどん覚えた。と同時に英語はどんどん聞かれなくなった。英語を言語として学校教育を受けていた期間の長い長男、次男と比べると、消えるのが早いのも仕方がないか、でもどんな風に、あるものは残り、あるものは復活するのか、と思っていた。消えると言うより、深層に潜るというほうが合っているかも知れない。殆ど幼児の語彙である。それがどういうふうに残るのかしら、音として、また、幸せな思い出に繋がる言語環境としてかしら。
そして、ラボがどのように作用していくのか。我が家では、ラボライブラリーを毎夕食事にきいている。毎週のラボのクラス、行事、そして受け入れ体験も多い。
ある時舜が自分から「ぼく英語忘れちゃった」と言った。だから話せない、と。人前で英語を言うことをいやがるようになった。我が家に滞在する大人のアメリカ人は、舜にもどんどん話しかける。舜が言った。「ぼくね、言われてることはわかるんだけど、どう答えていいか忘れちゃったの。」
最近、それが変化してきた。それは彼の中で、日本語が育ち、語彙が豊かになってきたのだ。ライブラリーをきいて、英語と日本語の違いを発見するようになった。ことばとことばの対応が出来るようになってきたのだ。こんなふうに、言葉は残り、生き続けていくのだなと実感していたこのごろであった。ラボのやり方は、幼い帰国子女に無理なく、こんなにいい感じでことばを潜めていけるのだなあと思った。
そして今日、である。あんなに自然に、自分は英語が話せるよと、答えているなんて。自信がなければ、どんな小さな一言も出ては来ない。彼の中で、それが生まれたのだな、と思った瞬間でした。
今日は、実家(愛知県)へ行き、父の四十九日と、経営者だった父の会社のあと始末で、臨時株主総会を開いて、帰ってきた、その帰り道でした。
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テーマ活動の教育力を明快に描き出しマイパーティの強化に集中しよう。
春の地区発表会に向け、安寿と厨子王を始めた。この物語は、私が小さいとき、おそれと感動をもって聞いた(読んだ)物語である。生き別れ、死に別れという、現代の便利で平和な生活とは無縁のようだが、ラボっ子たちはかつての私とおなじように身につまされて聞いていた。人買いにさらわれそうになったら、戦えばいい、やっつければいい、海に飛び込んで逃げればいい、などと、安易な感想が聞かれるはじめの頃から、テーマ活動を深めていくにしたがって、過酷な運命に耐える安寿と厨子王の心中を考えるようになって来つつある。母が盲目になるほどの悲しみとは何か。なぜ、安寿は、弟を逃がすため我が身を犠牲にしたのか。犠牲とはどういうことか。以前どこかで読んだ本に、山椒大夫には3人の息子があり、一郎は父の奴に対する酷い仕打ちを見て、黙って出奔する。次郎は心優しく、安寿に思いを寄せている。三郎は残忍な性格であるが、父にとっては頼もしい息子かもしれない。そんな話もラボっ子たちにしてみた。なぜ、安寿は、次郎のもとで安楽な暮らしを求めなかったのか。悪い奴に与したくなかったから?でも、そうすれば、自分と弟はもう少しましな労働につき、酷いめにあわないかもしれない、そういう守り方だってあるかもしれない。仏さまによる一条の光を信じて、ついに厨子王は逃げることが出来、父の無罪をはらし、母を救った。
自分たちには起こりえないような過酷な運命をテーマ活動の中で経験することが、その心をどれほど耕していくものなのか、取り組んでいきたいと思う。人生にはいろいろなことがある。つらいときもあり、悲しいときもある。悲惨な世の中で自分を見失わないのは、心が「一条の光」を信じているからだと思う。根底に、明るい力強さを持ったこどもに、そして、想像力のある子どもになり、我が身の不幸だけを嘆くことのないよう、生きる力をみにつけてほしいとおもう。
日本語であっても、今の子どもたちにはなじみのないことばにも出会っている。柴を苅るの柴とは?汐を汲むとは?そして仏さまはポケットにいれているのではない。「ふところ」をいうことばをお母さんから引き出してきた。ふところは着物の部分でもあるが、「ふところがせまい」「ふところがふかい」という言い方をしたときには、どういう意味?
柴については、芝だと思っていた子がほとんど。山の中でそんなもの苅ってどうするの?一人が、英語に気づき、薪だと言い出した。日本語の意味を英語から引き出した例である。
そしてそれをどう使うのか?当時の生活を考える子どもたち。汐汲みは、どんな経済効果があるのか考える子どもたち。そして、日本海の経済ルート。京都の政権が及ばない地方での悪党。政争に敗れたと考えられる父、正氏の流罪。「ながされる」ってどういうこと?九州に流された人で、有名な人は?子どもたちの興味は尽きない。ただの昔話ではなくなってくる。そんなことに費やしているうち自然と身に付いてくることば。そして感動を人にも伝えるには?楽しい縦長の活動の中で育まれていく人間としての成長。テーマ活動は素晴らしい。
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今日は加藤Pナーサリーライムリサイタルの夕べ。
6時集合で、持ち寄り夕食会のあと、リサイタルがはじまった。例年はバレンタインリサイタルと称して行っているのだが、今年は私の父のことがあり、いろいろなことが後手になってしまった。
新年は百人一首、短歌作り、言葉遊びと日本のあそび。そこからナーサリーライムへと続く。2月11日が、東京支部高学年活動発表会で、我がPからも何人か出ているので、なんとなく落ち着かず、4月の地区発表会への出場への端境期でもあり、進級進学の時期でもあるため、この時期はナーサリーライムの個人発表という道を選んでいるのだ。
ひとり5つのナーサリーを選ぶ。今までに自分が発表していないもの。一つか二つはクラス共通であったりする。一つは必ずソロになるように選んでいく。
メリーゴーラウンドを卒業したと思う人は2集へと進んだり、大変だと思った人は翌年、1集に戻ってきたりする。実力派には、英詩の翻訳や暗唱。高学年活動発表でセリフやナレーションのあった人はそれを披露。国際交流参加者はすがたりを少しずつすすめているのを披露すること。
毎週のクラスでテーマ活動のかたわら、ひとりずつ、あるいは何人かずつ、またクラス毎で練習してきた。各自ひとつのNRをえらんで、絵本もつくった。受験が終わってやってきた子もすぐに合流できる。
リサイタルのやり方は、メリーゴーラウンドのCDのトラックナンバーの若い順に、司会者がタイトルを言うと担当するラボっ子がでてきて披露する。CDの前奏の部分をかけたあとボリュウムをしぼる。キディと中高生が一緒になったり、ソロがあったり、クラス共通発表があったり。小学校低学年の共通NRは、What are little boys made of? とThis is the house that Jack built 高学年たちは A was an applepie 早口言葉には私の夫も引っ張り出されてきた。つづいて英詩。5年生のKがいつのまにかBed Time を暗唱出来るようになっていて驚く。小1のCは私と一緒にWhat is Pink? 中2のKがThe Tide in the River 。そしてNR2集。それから、ハメルンのふえふきのナレーション披露。すがたりのたぬきの披露。たてつづけに1時間10分ほどの発表でした。
ご父母のみなさんは、持ち寄り夕食会の続きをしながら、作った絵本を回し見したり、リラックスムードで鑑賞。小さい妹たちは、ステージ(お座敷)いったりきたりと、もっとリラックスムード。
ラボっ子たちの毎年の成長がまぶしい。
発表をおえ、ラボっ子たちは春の地区発表(安寿と厨子王)にむけ、ミーティングをはじめた。
発表したNRは以下の通り。まずNR1集から
Ring-a ring o'roses
Jack and Jill
Rub-a-dub-a-dub
The old woman who lived in a shoe
Pretty maid
Humpty Dumpty
Polly put the kettle on
Simple Simon
Cows are in the meadow
Hey, diddle, diddle
Round round the garden
Pat-a-cake
This little pig
What are little boys made of
Hot cross buns
Wee Wiilie Winkie
Diddle, Diddle, Dumplin
There was a crocked man
Baa, baa, black sheep
Dr. Fell
Pussy cat
Solomon Grundy
Lavender's blue
A was an applepie
Rain, rain, go to Spain
She sells sea shells on the sea shore
This is the house that Jack built
英詩
What is pink?
Bed Time
The Tide in the River
NR2集
We'll go to the wood, says R to B
Three children slideng on the ice
Taffy was a Welshman
Hickory, dickory dock
Come butter, come
The three little kittens
Great A
すがたり
ハメルンのふえふき
たぬき
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1月29日、父が亡くなりました。72歳でした。昨年の夏、すでに末期の胆道ガンとわかったのですが、それでも、早すぎる死でした。病弱な母と、100歳の祖母を遺して逝ってしまいました。交友関係の広い父でしたが、母の身体のことを考え、家族だけで見送りました。
私が小6の時、第一回ラボ国際交流受け入れに参加しました。父がはりきって、文通を始めました。夜な夜な和英辞典を繰って、話しかけることも憚られるほど入れ込んでいました。「このうちで英語ができるのは俺だけだ!」 受け入れ当人のわたしはそっちのけで、私はずいぶんと冷めた目で父の奮闘ぶりを見ていました。母はバミューダパンツを買ってきました。パンツ一丁で歩き回る父に、思春期の女の子が来るということを認識させていました。
いよいよ日が迫ってくると、父はパニック状態におちいり、私の外様ぶりを責め始めました。
「おまえなあ、少しは身にならんか。もうじき来るんだぞ。ホームシックになったり、おなかが痛くなったら、一体どうすればいいんだ!」
「そんなの簡単よ。Daughter, what's the matter?って言えばいいんだ。」
両親は口あんぐり。母はテューターのもとへ走り、「先生、うちの子から初めて英語が出ました!」
トレイシーがやってくると、唯一英語が出来るはずだった父はあっさりと前言撤回。日系4世のトレイシーの日本語力にたより、あとはもっぱら、にこにこ作戦。これじゃあと、私のやる気に火がつきました。
ラボにとっても、パーティーにとっても、家族にとっても、私にとっても、初めての受け入れに右往左往した一夏が過ぎ去り、バミューダパンツはお蔵入り。
パパありがとう。パパのおかげで、今の私があります。
こんなプライベートなことを、HPに載せたのは、私がラボを続けて来られた人生のいろいろな場面で、家族の支えを感じていること、また、ラボとパーティーの歴史にもふれていると思うからです。父から受け継いだ資質も、今の私のパーティー運営に基礎となっていると思うからです。人のために一生懸命やる。それも楽しんで。
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今日は少しゆっくりしてBSで大相撲中継を見ています。副音声の英語解説を聞きながら。おもしろいですよ。
日本的なことばの多い大相撲中継をどう英語で解説していくのか、興味があって見始めました。どうしてどうして、たいしたもんです。解説は、おなじみの日本人による解説の同時通訳ではなく、英語による独自の解説なのです。さすがプロ、「何々山がまえみつからおっつけ、上手投げ、ではなく決まり手は小手投げでした。」と言って、どうして上手投げではなく小手投げなのか解説もし、場内の振り袖姿から、成人式、振り袖、お見合い写真と、外国人が知りたそうな内容を次々解説していきます。
饒舌とも言える英語解説がブッツリ途切れてしまった場面がありました。
NHKのアナウンサーが、相撲協会の元横綱北の湖にインタビューしている場面です。
日本人の話し方では、主語を言わないので、英語にするとき冒頭から詰まってしまい、誰が行動の主体なのか、誰の話題なのか言えないでいるうちに話がどんどん進んでいたり、主題が変わっていたりしてしまいます。途中から、通訳を諦め(?)独自に国技館の解説に入りました。相撲協会の観念論なんて、外国人の興味ある話題ではないのかもしれません。相手が知りたいことを取り持っていくのが通訳なのだと言うことも出来るでしょう。
ホームステイ中のラボっ子とホストファミリイーとの間を取り持つとき、テューターシャペロンが重要なのはこういうところです。日頃の活動からティーンエイジャーの生態に通じていますから、成田で初めてあったラボっ子の面倒も見られるわけです。
ロッジマザーがキャンプでやるように、つまり、テューターのシャペロン研修は、日頃の心がけ次第ですね。
東京新聞(中日新聞)の1月10日夕刊の、コミュニケーションと題するシリーズ記事の?に、「聞く力」として鷲田清一氏が書いていました。そのなかに、
「このように語る/聴く関係のなかでは「ふれあい」よりも、ずれや齟齬、すれちがいのほうが顕在化してしまう。が、このぎすぎすした関係をなんども経験することこそがたいせつなのだとおもう。ー中略ーそのとき、ひとは言葉が通じないと感じる。私の言いたいこと(言葉の意味)ではなくて、言いたいというその気持ち(言葉の肌理)を逸らされたときである。そうするとひとは口をつぐんでしまいもするが、逆にもっとはっきり話さねばとおもう。分かってほしいという受け身の態度ではなく、言葉を届けにいこうとしはじめる・・・。」
これは、まさに、わたしが、4-Hコーディネイターとして、ホストファミリーオリエンテーションで力説していたことだった。そして、多くの家族がわからないながらホームステイを開始し、体得した経験だった。
思春期のらぼっ子たちの対するときにも、このカンファタブルでない状況を克服していくプロセスがとても大事だと思っている。簡単なことから言えば、ラボを休むとき、お母さんではなく自分で連絡してくることなど。
おんな合宿でじりじりしたおもいがかなりあった。ゴミを拾えとか、あとかたづけをしろなど、もう、小姑としかおもえない小言が山ほど、私の中に。
この山を一つ一つ、クリヤーしていかなければ、と新年に思ったのでした。
「こういう試行錯誤のくりかえしの果てにしか、語る/聴くという関係は生まれない。語りは信頼を前提とするが、信頼は言葉の積み重ねのなかでしか生まれてこないからだ。
そういう言葉のやりとりにかける時間を、ひとびとはなぜか惜しむようになっている。」(同記事より)
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高1、小6の長男次男、ウインターキャンプ2班に参加。今朝、出発。今回我がPからの参加はこの二人だけなので、将来のスプリングにパーティで参加する場合の自主コースの練習として、まず、二人で自主コースで参加。時刻表の見方、乗り換えも何回かこなし、各駅停車で黒姫へ。あとは、ラボランドまで、一本道を歩いていけばよい。
次男は11月に一度黒姫駅からラボランドまで歩いている。
2時をかなりすぎ、夫の「着いたか?」のメールに対し、長男のメールは「ああ」のひとこと。
ほっとした。
4時を過ぎ、ラボランドから「まだ到着しませんが」という電話。えーーーーっ!
結局、戸隠の方へ行っていたところをラボランドカーに拾われたとか。
どうやら、長水の方へ曲がったらしい。40分もあれば着くところを、2時間も歩いて、「迷ったかな?」と思わないんだろうか。うちの息子どもは。
失敗もありうる、ということで、学んでほしいとおもう。
しかし、たろー丸では、有名人になっただろうな。
彼らが出発したあと、テーブルのうえに、次男が持っていこうとしていた箸とスプーンを発見した。それも、次男と三男の日常つかいの箸の一本ずつ。どうしているだろうか?
いかにも次男らしいと話ながら、ふと、外を見た夫。「あの木、どうして切れているんだ?」
なんと、夫がぎっくり腰になりながら、枝付きのまま運んだムクゲの大鉢が、無惨にも高さ50センチほどのところで切られている。
三男いわく、長男が「じゃまだから切った」のだそうだ。おお。運ぶときは大騒動で、長男も手伝ったはず。何で切るかね。
かえりは、9時半ラボランド出発、10:51黒姫発の予定。「帰りはもう大丈夫だと言っていますがー、、、」少々困惑気味のたろー丸でした。
ご迷惑、ご心配おかけしています。
明日は、我が家で、おんな合宿。
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クリスマス発表会は、田上Pと合同で行いました。発足して一年半のフレッシュな田上パーティはテーマ活動の発表は初めて。とてもかわいらしいがらがらどんでした。プレイルームのナーサリー発表も楽しいものでした。そして小さな子たちが、飽きずに加藤Pの発表をじっと見てくれていました。これには加藤Pのお母さんたちも感激でした。
加藤Pの発表は、4,5年生のシフカブールカ、小1の智英美ちゃんのナーサリー発表、小6中高のひとうちななつ、そして幼小(低)のじぷた。どのグループもそれぞれの課題をのこしながら、一人一人のいいところも見える発表でした。春の地区発表に向け、作戦を立てなければ、と思っています。
在籍表彰では、10年、7年、5年、3年があり、児童文学文庫をプレゼント。それから、ほかの子たちも何かしらの賞状とえんぴつをもらいました。6年生には、毎年英和和英辞典をプレゼントしていますが、名目がぱっとしなかったのですが、今年は思いつきました。「ティーンエイジャー入門」6年生たち、早速開けてみていました。我が次男は、すでに持っているため、「国語辞典」でした。いつも、日本語がだめ、といわれ皆から指導されているので、大受けでした。6年生の3学期に辞書の引き方を教えます。先輩たちも混じっての「辞書引き大会」
6年生になったら辞書がもらえるというのが楽しみにしてほしい、それまで続けてほしい、ラボでもらった、みんなと同じ辞書を使いこなしてほしい、テューターの願いです。そして、これは、私自身、私のテューターからしていただいたことでした。
年明け早々、「おんな合宿」というのを行います。4年生以上の「おんな」限定、テューター宅にお泊まり。思春期はじまりかけた、女の子たち。固まったり、はずれたり。ごっちゃにしてぐつぐつ煮てやろうと思います。大浴場に連れて行くのもいいかも。うちのお風呂では、誰と誰が一緒にはいるとか、はいらないとか、うじゃうじゃはじまって逆効果。
なべもいいかなあ。もっとおしゃれなのじゃないとだめかな?とにかく、みんなでつつくタイプがいいか。チーズフォンデュは?
うちは、男ばかり3人兄弟。上の二人がウインターキャンプ2班に行っている間の「おんな合宿」です。
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バーニーとの思い出
親しみと敬愛を込めて、皆さんがバーニーさんとお呼びしておられるバーニー・レーベンスピール氏とは、アメリカで、離れてはいますけれども一緒にお仕事をしましたので、同僚のような親しみと友情をこめBarneyと呼びます。
98年春から2001年秋まで、夫の転勤に伴いアメリカに住んだ私は、4-Hのコーディネイターを体験する機会に恵まれました。4月テキサスでの生活が始まり、5月からダラスの4-Hオフィスに通い始めました。アメリカでの生活を覚えるのと同時に私のオフィスでの格闘が始まったのでした。当時プレイスメントはやっと10分の1ほど。日を追うに従い、あと何人、と夢にまで見るほど。やがて、レイトプレイスメントながらどんどん決まりだし、ホストファミリーが余って、他の州からラボっ子をまわしてもらいました。HIS をシアトルの4-H事務所に送るのですが、ラボのシアトル事務所でも待ちに待っていることを知っていますので、同時にファックスや電話などで、情報をリークしてあげるわけです。そんな折り、バーニーとも、「一人決まった。やったね!」と喜び合ったものです。
シアトルのラボとの電話を家でしていると、「家で」というのは、テキサスとシアトルでは時差がありますから、まず午前中は電話はかかってきません。そして私が帰ろうとする頃、または、家に帰り、三人のこどもたちに夕食を食べさせようとこれまた奮戦しているころ、シアトルからのんびりした感じの電話がかかってきます。ホームステイの期日が迫ってくると、鬼気迫るものがあり、ホストファミリーが決まったときのうれしさはいいようがありません。
こどもたちが「誰と電話しているの」というので、「バーニーと」と言うと、三歳の三男が「バーニー、ポーエイチなの?!」と目を輝かせています。まだ4-Hと発音できない3歳のこの子にとって、アメリカでバーニーといえば、テレビのこども番組で大変人気のあるキャラクターの紫のかいじゅうです。うちの子はバーニーの寝袋、バーニーのスリッパと、キャラクター商品まで持っていて一番お気に入りの番組だったのです。バーニーが4-H関連の仕事をしていると思って大変な騒ぎでした。
秋になり、平野さんから、4-Hのニュースレターに私の奮戦記を載せようということになり、がんばって作文を書いたのですが、作文をシアトルに送った頃には、もう、平野さんから聞き書きしたバーニーの文章ができあがっているのです。内容は同じなのですが、バーニーはとてもソフィスティケイトされた、知的な文章を書く人ですから、私のものとは、ずいぶんちがいます。でも、それでは私が右も左もわからないアメリカで奮闘した熱さが伝わらない。稚拙な文章でも私のいかにも苦労した、というところがなければ、と、ずいぶん変えてくださいとお願いしたりしました。そのニュースレターが出て、11月に4-Hのナショナルコンファレンスにいきますと、皆さんが読んだ読んだと言ってくださり、バーニーにもお会いすることが出来ました。
お互い「やっと、お会いできましたね。」バーニーが「あなたとても有名ですよ。」「ええ、あなたのおかげでね」と私。そのコンファレンスは大変素晴らしいものでした。ラボで働いているバーニーは、4-Hのコーディネイターたちからとても信頼されていました。私は、アメリカで人生観が変わったというか、結婚や離婚、再婚、年をとってもいきいきと人生を営んでいる姿に感動していたのですが、コンファレンスでバーニーに会い、「What a nice guy!」と思ったものです。
その後、私はカリフォルニアに移り、コーディネイターの仕事の内容が変わりましたし、バーニーは、ノン4-Hの担当になり、あまりお電話で話すこともなくなりました。平野さんが帰国され、事務所をバーニーの自宅に移したと聞いて、お電話しましましたら、バーニーがでて、「お身体大丈夫?」「シアトルにいらっしゃい。案内しますよ。」「まあ、じゃあ、ぜひ!」実現できませんでした。
私は3人のこどもをおいて、5日間ほどのコンファレンスに参加しているわけですが、「4-Hコンファレンスでバーニーに会ったとこどもたちに報告できるわ」というと、「僕は紫じゃないけどね」とおっしゃいました。
素晴らしいバーニー、すてきなバーニー、知的で優しいバーニー、安らかにお眠り下さい。
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こんな、レジメという形しか載せられなくて、ごめんなさい。
中部支部の国際交流オリエンテーションに、私のようなものがどう、お役に立てるだろうか、中部には力のあるテューター、経験のあるラボっ子たち、また、毎年語り継ぐ数々の体験を持つパーティがたくさんあるだろうに、と頭を悩ませていました。
ラボっ子と、そのご父母との、両方を対象とするオリエンテーションは、焦点を合わせるのがとても難しく、構成などいろいろ考えながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。ラボっ子だけでも、小6から高校生までいるわけですから、彼らに届く話をするのは、ことばの選び方からとても苦慮しました。夜な夜な考えては、これは午前中、こちらは午後と寝返りを打ち、朝起きるとごちゃごちゃになっていて、睡眠不足だけが残る始末。中部の方へ、レジメとして完成させたものを送り、相談のうえ直したり、その後印刷してもらうという手順もありますから、最後の週はどたばたしていました。
午前中のラボっ子のオリエンテーションでは、ローラのスピーチの後、私たちのスキットではじめました。題して、ホームステイ初期におこりがちなマイナートラブルです。ラボっ子たちは、「事前活動」が始まろうとしている矢先ですから、ホームステイのことを想像しようにもなかなかだと思います。どんなことがおこるのか、そのためにどんな準備が必要なのか。事前活動って何の役に立つの?彼らが想像するとしても、一体どんなホストが待っているのか、初めてあったとき何て言おう、くらいしか想像力が働かないと思いました。そこで、初めてあったシーンから、2,3日の様子をスキットでみせ、困ったとき助けてくれるのが自分自身の準備なんだよ、と。
ローラには、スキットのあらすじだけメールで送っておき、当日の朝、初めてあわせたのです。ローラがとてもいい子で、適応力のある子だったのでほんとうにたすかりました。
その後、どんな準備をしていったらいいのか、事前活動の意義を説明していったわけです。私も中部出身の先輩ラボっ子ですから、時には三河弁にもなったりしながら。
ワークショップとまではいきませんが、その導入として、「スーツケース」「スマイリーフェイス」「ポケット」をやりました。
「スーツケース」では、何を準備していったらいいか、書き込んでいくというもの。精神的な準備、特技、自信といったものです。
「スマイリーフェイス」は、自分の感情を表す15の表現について、顔の表情やことばを書き込むというもの。感情を表す少なくとも10から15の表現方法を身につけてきてほしいというのが、カリフォルニアのホストファミリーからでた要望でした。
「ポケット」は、こんな時こういってやろう、という、ライブラリーからのセリフを書き込んでいくものです。ホストファミリーとBBQでもしながら,
Isnユt it jolly? いい気持ちだなあ!こんな俺たちを見たらみんななんというだろう、、、、なんて英語で言えたら、サイコーじゃん?小さい頃からたくさんのお話いっぱいの体験をしているラボっ子たちには、こんなことばのポケットがたくさんあるはず。ちょっと整理してみよう。というわけです。私も、ステイ中、お母さんが「のりこは、同じ年頃のアメリカのこどもたちじゃちょっと言えないような、気の利いた、文学的なことを言うよ」と、他の人に自慢しているのを聞いてしまいました。
ユタのトイレ事件というのは、異文化であり、ホラーであり、笑い話であり、しかも、頼れるのは自分だけ自覚した体験ですが、ユタのコーディネイターもおもしろがって、あちらのホストファミリーオリエンテーションで毎年使っているそうです。詳細はラボっ子に聞くなり、機会があれば、一席ぶちましょうね。
父母オリのコメントについては、to be continued.
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04年度ラボ国際交流父母オリエンテーション
「人は自分の目の高さの体験をする ムAre you prepared?」自己紹介
1968年ラボに入会(三河 藤井パーティ)
1973年(小6)、75年(中2)受入
1977年(高1)アメリカ ユタ州ホームステイ (後年受入多数)
1993年東京都あきる野市にテューターとして開設
1998年から2001年までアメリカ在住。テキサスとカリフォルニアで、4-Hの
コーディネイターとしてラボとの国際交流を担当。全米カナダコーディネイター研修にも参加。
2001年秋、帰国。あきる野市にてラボを再開。ホームステイ交流のアドバイザーとして、プレゼンテーション、ワークショップをおこなう。
ひとりだちの旅、おめでとうございます
私が我が子をラボで行かせる理由
* ラボの教育理念の中にある国際交流
ラボの三本柱と、それを廻る成長
自分のことばで語り、他者を理解することの出来る真の国際人を育成する
* テーマ活動、すがたりを用意していく意義
* 青少年育成団体である4-Hクラブがラボと交流している意義
* 大きな意味での事前活動
思春期のこどもに深く関わるチャンス
4-Hの国際交流のゴール
世界を一つの家と見なし、相互理解による世界平和をめざす(1948)
ラボとの交流は、日本のティーンエイジャーとの交流により、4-Hの若者の視野を広げ、異文化、他人への理解を深め、言語を含めたコミュニケーション能力を高め、また自分たちの社会、文化を伝えることを通してリーダーシップを育成する意義を持つとの考えから推進されている。
リーダーシップとは
4-Hによるホストファミリー決定のプロセス
募集 申請 インタビュー
ホストファミリーオリエンテーション(アウトバウンドオリエンテーション)
日本とアメリカ、どちらが危険?
日本のティーンエイジャーとは
食事、危機管理意識、表情、「~してくれる」のをまっている くれない族
我が子を客観視してみましょう(エバリュエーションシート)
理想的なラボっ子には FLAIR がある、そしてそれは、練習や鍛錬、体験によって得たものである(flair : 直覚的な識別力、鋭い眼識、勘、第六感、才能、好み、傾向、技)
F - for flexible
L - for language
A - for adventuresome
I - for independent
R - for responsible
「親」
心配した父親からホストファミリーに届いたE-mail
はじめの頃におこるマイナートラブル
頑固者?確固たる自己の持ち主の試練(バランス感覚は?)
昔話における3回の試練と成長
人は自分の目の高さの体験をする/その子にしかできない試練
パーフェクトな子が行くのがいいのではない
パーフェクトな家庭が用意されているのではない
パーフェクトな相性があるわけではない
どうやって家族になっていくのか、お互いに努力した結果が、素晴らしいホームステイ交流となる。長い目で見て、双方の成長にどう影響したといえるのか
親としてどういう準備をさせたらよいか
DIY 事前活動を支える よその家の台所 客観的論理的で正しい情報を伝える
ラボっ子、テューター、ホストファミリーと具体的に話し合う、書き出す
送り出す親の側にも成長のチャンス
ユタのバターミルク事件
ちさきちゃんの15年ぶりの手紙
のんちゃんへ(そう呼ばしていただきまーす)
来ました!返事が来ました!
のんちゃんのアドバイス通りに、「元気?」ではじめて
家族の写真を入れて、メールのアドレスも添えて出してみました。
(こんなに時間がかかったのは、私の英語の力が全くないため
文章を書くのに、かなり手間取ったからです。)
すると手紙を出して、4日目に自宅のパソコンに
ホストファミリーの写真と共に、メールが送られてきました。
すごく感動でした。心配していたお父さんも
元気そうに写真に写っていて、安心しました。
なかなか勇気がなくて、長年出せなかった手紙。
いざ出してみると、こんなに簡単に出来ることを
どうして15年も掛かったのかと、情けなくなります。
そしてもっと早く出していたらと、後悔もしています。
でも、のんちゃんやOB、OGの人達に刺激され
手紙を出して、本当によかったです。
今度こそ途絶えてしまわないように、まめに出していこうと思います。
本当に、ありがとうございました。
25年ぶりのオレゴン訪問
一人が一夏の交流をしてくるのではない。30年余のわたるラボの国際交流の中の現在過去未来、縦横斜め、連綿とつながる体験(それが海の向こうでも)
P.S. 水をのみましょう
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