|
|
|
|
|
[一覧] << 前の日記 |
次の日記 >>
|
Can I help you? |
03月14日 (土) |
|
Can I help you? って、「いらっしゃませ」だよね?と、中1の三男が部活の先輩に聞かれたそうだ。
「うん、店ではね。場合によって違うけど。」
それだけ言って、あとは自分の考えが正しいかどうか、夕食の時に私に聞いてきた。
「うん、店ではね。場合によって違うけど。家なら、てつだおっか?になるでしょ」
先輩とのいきさつは知らず、答える私。何でそんなこと、わかんないのよって思って。
さんざん、経験があるはずじゃないか!
詳しく聞いてみる。
三男は、Can I help you? は、その通りの意味なのに、
どうして授業では「=いらっしゃいませ」にしちゃうんだろうと思ったんだそうだ。
たしかに、日本では、その通りの目的でもその通りのことは言わない。
そう思えば、訳は「いらっしゃいませ」になる。
「でもさ、アメリカのホストにCan I help you? って言われて、
何で今『いらっしゃいませ』?って思っちゃうよね。日本の教え方だと。」
(きっと「場合によっては」っていう先生の言葉を聞き落としているんじゃない?)
中1の英語という限られた環境の中で出てくる英語は、三男にとって新しいものはないそうだ。
「全部知ってる、ていうか、聞いたことある。」
先輩が中1の三男に聞いてきたのは、「こいつ、英語の点、いいんだって」ということかららしい。
バイリンガル幼児だった三男は、帰国後日本語が急激に上達し、それと同時に英語はしまい込まれた。
もちろん、ラボで聞き、話しして、受け入れ体験も多数。
だが自覚しておらず、自信もなかったらしい。
そのしまい込まれた英語が、昨夏のホームステイで出てきたらしい。
自分は「わかってるってことがわかった」経験をしたのだそうだ。
言葉が、ごく自然にわーっとわいてでてきたんだって。
今、言葉に対する観念が磨かれてきたのかなあ。そんな会話が増えた。
いま、取り組んでいる「みにくいあひるのこ」は、ことばがすごい、と思う。
日本語も英語も、ただの訳語ではなく、味があるのだ。
始まりの言葉も「そのみにくいあひるのこがうまれてきた時のようすは、こんなふうでした」
と、一気にその情景に引き込んでいる。
音楽もそうで、だからキディさんたちのきょうだいあひるは、タイトルの音楽でもう生まれてしまうんだね。
ラボのライブラリーの良さは、その題材によって、あらゆる言葉を吟味したところにもある。
「=なになに」のような訳語でなく、この気持ちのときはこんな日本語、その時の英語はこんな英語、
その同じ英語がこの物語のときはこういう日本語と共に使われていて、こういう気持ちを表す。
そういう往還があるので、2倍、4倍・・・の精神性やバックグラウンドを持つ言葉に出会う。
みにくいあひるのこをききながら、
The ugly duckling had never been a duckling at all. という英語に、夫も私もウケている。
「もともとあひるのこではまったくなくて」
原作にはない言葉のようだが、あまりに正直な言い方で、
どうしてそんなことになってしまったんだろうという想像をかき立てる。
そこに、ラストの He could be himself. が生きてくる。
そうなると、あひるだ、白鳥だは、問題ではなくて、本質が問われているということになる。
あひると白鳥と、どちらがいいと思う?と、小学生に聞いたら、白鳥!という。きれいだから。
家禽と野生は、どちらが幸せなの?
食料が与えられ、住む場所があり、危険がない家禽の生活(でも食べられちゃう)と、
いつ死ぬかわからない野生の生活(でも、自由?本当に自由なのかな。自由ってなんだろう)
どちらがいいの? 自分なら、飛び出していく勇気はあるのかな?
テーマ活動をするときに、まだまだ言葉や暴力の押収になってしまいがちな中で、
自分の中に物語が育っている子は、きらきらの笑顔で本質に近づいている。
いじめはいけません、ではない高みに登っていくことができるのだろうか。
どの子も、自分の素晴らしい姿を自信を持って表現するところまで、行けるかなあ。
|
|
|
<< 前の日記 |
次の日記 >>
|
|
|
|