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「多少の試練と悲しみがなければ、人生は、いい具合に発展することも円熟味を増すこともできないの、それは確かよ」
『アンの愛情』第6章 アンの台詞
" I'm sure no life can be properly developed and rounded out without some trial and sorrow"
from "ANNE OF THE ISLAND" by L.M.Montgomery
どんなに幸せそうに見える人でも、他人には言えないその人だけの苦労が、必ずあります。でもだからこそ、その人の人生は、輝いて見えるのかもしれません。
あなたが今、大変だと感じている試練と悲しみが、あなたを羽ばたかせ、成長させ、人生をゆたかにするのです。
アンは、「それは確かよ(I am sure)」と言っています。
なんだか、アンとモンゴメリに、励まされているような気持ちになります。
だから、もう少し、がんばってみてください。
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いつもアンのメルマガは、その時の私の気分にぴったりの言葉を教えてくれる。中々思いが伝わらずに悲しい思いをすることがあるが、そういう思いをたくさんしている方が、人に優しくなれるし、そういう試練や悲しみが人を成長させてくれるのなら、その成長を信じて羽ばたく準備をしないとね。
春の入会活動でチラシを作成し、明日はチラシ配り。プレールームのお母さんも近くにまいてくれると、それぞれ持って帰ってくれた。他にもわらべ歌のサークルや子供サークルとかに出かけていってみたらとアイデアも出してくれている。何か私にできることから始めないといけないな。それが入会に結びつくといいんだけど・・・4月は合同でパーティー合宿。プログラムも少しずつ話し合いが進んでいる。パーティーのみんなが仲良くなり、他のパーティーの人たちと出会い、一緒に活動することで、また世界が広がるといいな!
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今日は、朝から息子の中学の広報の仕事で、クラスの長さんの家に数名集まって広報誌の校正をした。全員役員制だが、なかなか全員集まらないので、責任者の方は大変だ。おまけに先生のチェックが十数か所入っていたので、書き換えたり入れ替えたりしながら作業していった。やはり色々な人が目にするもの、マイナーな意見は排除するというものがあったり、生徒会役員紹介の欄で、女子を先に書いていたら、男子と入れ替えるようにチェックが入っていたり、なぜ?と首を傾げたくなる所もあって、未だに保守的な考え方をするんだなと思ってしまった。
参考にと色々な広報誌を持ってきていた方がいて、その中に健康新聞があり「今の子供たちを考えよう」というのがあって、やっぱり大事なことは同じなんだと思ったので紹介します。
“本物の学力”―勉強する前に読む本より― (健康新聞すこやかより転載)
本物の学力は、偏差値だけでは測ることはできません。生活体験を通した「隠れた能力」が本物の学力を作っています。
*親子のふれあいが大切
―親子関係が上手くいっていると、生活体験は豊富になる―
親子のふれあいと生活体験とは、密接な関係があります。小さい頃から親子関係が上手くいっていると、親子のコミュニケーションは活発になり、言語能力の発達も早くなります。さらに、いろいろなところに出かけて、外で未知の体験をしたり、室内では親子でゲームをしたりして一定のルールを知ることは、本物の学力を身につけるにはとても大切なことで、「隠れた能力」と言っても良いかもしれません。
*結果重視
優等生タイプのお子さんほど、結果をよく聞きたがります。受験に強い優等生でも、応用が利かない場合が多くあることも事実です。私の経験では、むしろ4年生頃までは外で遊んでいた子の方が、算数・理科・社会科の勉強の要領さえ教われば、どんどん学力が伸びてきます。先に述べたような基礎体験が少ない子は、「隠れた能力」が育ちません。5・6年生のなって受験勉強しても、それ以上伸びが少ないのです。
*楽しい勉強
私はどんなことでも「なぜそうなるのか」を、いつも子供に教えてきました。「ああ、こういう仕組みになっているのか」と納得した時の一種の驚き、そこから応用力や創造力が生まれてきます。驚きや好奇心がなければ、学校の勉強はつまらなくなるし成績も伸びません。勉強は楽しくなければだめですから、小さいうちから何かに感動したり驚いたりする経験をさせてください。
その子が何かのきっかけで歴史や理科の実験が好きになったら、教科書で習う時期でなくてもどんどんやらせてください。そうなれば、机に向かって勉強している感覚でなく、楽しんでやるようになるのです。そういうものが一つ二つあれば良いのではないでしょうか?生活体験を通して好きなものを見つけ、それを伸ばしていけば良いのです。
何にでも興味を持つ子は、新しい場面に出くわした時に応用力を利かせて、それを自分で切り開いていけます。机の上だけの偏差値の優等生タイプは、社会に出てから役に立たなくなってしまいます。生活体験を豊かにすることは、役に立つ本物の能力を身につけることですが、それには親子のふれあいが大切なのです。
*家庭の教育力
学校の教育力は変わっていないけれど、残念ながら周りの環境が変化している。つまり、家庭の教育力が落ちているのです。「しつけ」ができていないため、いろいろな教育問題が起きてきたといっても過言ではありません。子供は塾に入れっぱなし、運動はスイミングクラブやサッカークラブに入れっぱなし、つまり何でも人に任せてしまう風潮が強くなってきました。
家庭での教育を、お母さんとお父さんが分業してしまったらだめだと思います。教育はお母さんに任せっぱなし、お父さんは無関心では、子供はたまったものではありません。非行の問題が起きてから、中学生になった子供と話そうとしても、もう手遅れなのです。教育は父母の共同作業です。
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今日は、あいにくの雨の中久しぶりに主人と二人で、佐賀城下ひなまつりに行って来た。毎年春を告げるイベントのひとつとして行われている。今年は2月21日~3月31日まで行われていて、今日が二日目。
鍋島家伝来の雛人形をはじめ、鍋島小紋や佐賀錦など、佐賀城下ならではのお雛様を、歴史的な建物とともに堪能できる。入場料は、共通券で400円。一ヶ所だけなら200円という安さ。でも400円の方がやっぱりお得。たった400円で、鍋島家歴代のお雛様から江戸時代のお雛様。佐賀錦のお雛様に江戸ちりめんの木目込み人形、各地の陶磁器やガラス細工に紙細工、おまけにお菓子のお雛様など多種多様なお雛様をゆっくり歩きながら見ることができる。この期間は町じゅうがお雛様一色で、どこのお店のディスプレーも何かしらお雛様が飾ってある。それを見つけて歩くのもまた別の楽しみがある。いつもは車で素通りしてしまうような所も、歩いてだと今まで気がつかなかったものを発見できたりして、久しぶりにのんびりゆっくり佐賀の町を散策できた。
佐賀も去年はなわの歌で一躍有名になったけれど、ラボと同じで宣伝が上手くなくて、佐賀の良いとこがなかなか伝わらないけれど、こういうイベントをもっともっと増やして活気のある町になったらいいな!!
今年8月1日には、私が卒業した小学校跡地に、佐賀城本丸歴史館がオープンする予定。周りはお堀に囲まれ、桜の咲く頃は本当に綺麗な所。博物館や美術館も近くにあるので、興味のある方、たまにはのんびりしたい方は一度遊びに来てみませんか?
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なぜ、大人はすぐ結果を求めるのだろう?待つことができないんだろう?何を求めて子供に習い事をさせるんだろう?
何をするにしても基礎作りは重要で、しっかり基礎ができているとその後の応用がどんなにでもできるようになると思うのだが・・・待つことの大事さをもっと認識してほしい。
一見遊んでいるようにしか見えないことの奥に、表立っては見えない何かが蓄積されて、それが少しずつ積み重なって積み重なってそれが溢れるように貯まって、時間が経ってからやっとその結果が見えてくるもののような気がするのだが、どうしてもそれを待てずに先に先にと急がせてしまう。一体何を求めているのかな?と今日は何ともがっかりしてしまうことがあった。教室で座って勉強していると、いかにも身に付いているような錯覚をしてしまうのだけど、言葉は、頭で知識として覚えたことはすぐ忘れてしまう。けれど、体を使って心で感じて覚えた言葉は、何年経っても忘れずに残っていくものだと思う。でもどうしても待てずに止めていく子。この子にとってのこの1年間は、その後どんな意味を持って残っていくのかな?
言葉は生き物。続けていかないと忘れてしまう。よく植物に例えて話をされるが、なかなか芽が出ないからと途中で引き抜いて、別の所に植えてみても、思ったように芽が出ず花が咲かないからと、また別の所に植えることの繰り返しで結局その花をだめにしてしまうようなものだ。冬の厳しい寒さに耐えて、春咲かせる花の美しさ。じっくり待つことなしでは見られない世界。光が強くても水が多くても肥料が多くてもいけない、適度の日当たりと水と肥料、すべての条件が整ってはじめてきれいな花が咲く。
なんでも効率よく合理的にできるものの世界に慣れてしまって、じっくりゆっくり楽しむことができなくなっているのかな?大切なものは何なのか、もっとよく考えてほしいな!
この前観ていたドラマの中で、「何を選択したかではなくて、選択したもののなかでどう生きるかが大事」地位や名誉に拘って、大切なものを忘れて生きてきた人は、その地位や名誉がなくなったときに、どう生きたら良いのか分からなくなってしまう姿を見ていると、ホントに空しくなってしまう。一人一人価値観が違うといってしまえば、それでおしまいだけど、その価値観に振り回されている子供は、なんだかかわいそうだなと思うのだけど・・・・・
子は親を見て育つ。このことをしっかり肝に銘じておかないとね。
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大人としてどうあるべきか?興味深い話が載っていた。
『私たちは、本当に、子どもたちに「自分で考え、選び、行動する」場を提供しているだろうか。
あるいは、自分がきちんとやってもい(できもし)ないことを、平気で、子どもたちに要求してはいないだろうか。
“たとえば、おとなは子どもに「早く、早く」と言いますが、予定の時間に遅刻してくるおとなたちは、いっぱいいます。”
私たち自身が、まず、人間としてどうあるべきなのか。子どもたちの前に、どういうおとなとして存在したいのか。
そのことの問い返しなしに、子どもの問題も教育の問題も語ることはできないと思うのです。
上記の例でいえば、
「一方の判断を、もう一方に押しつけるおとなになりたいのか」
「『忙しい』という言葉に振り回されて生きるおとなになりたいのか」
ということであるとも、言えると思います。
おとなが、きちんと、おとなになったとき、今、さまざまに取りざたされている子どもの問題の多くが、解決されるのではないかと感じています。』
最近の子は・・・・というのは昔から良く聞く話だが、そう言っているあなたたちは一体どういう大人なの?あなたは一体どういう生き方をしているの?と首を傾げたくなることがよくある。世の中にはいろいろな価値観を持って一人一人生活している。だから自分の意見と違う人、価値観の違いから相手を受け入れることができないことがある。また、子どもたちと向かい合った時に、なぜこの子はこういう行動をするんだろう?と理解できずに、この親はこういう人だからしょうがないかと半ばあきらめてしまったり、そのままほっといてしまったり、一方の見方しかできていない自分に気づいてはっとすることがある。自分はどう育てたいのか?どう育ってほしいのか?いつも心に止めておかないと大きな間違いをしてしまいそうだ。
そして、自分自身、大人として一人の人間としてどうあるべきか?どう生きていきたいか?自分の生きていく道をしっかりと前を向いて、自分に恥ずかしくないように自分を見つめながら、歩いていけたらいいなと思う。
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わたしがとっている福音館書店のメルマガの中で、松居直さんの文章で興味深いものが紹介されていた。やはり、翻訳絵本というものは、日本語の文章がすばらしくないといけないのだと、本物の文章、日本語の大切さを改めて感じた。
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『1979年の秋のこと、私のもっとも尊敬するアメリカの絵本作家のマーシャ・ブラウンさんから、突然、電話をいただきました。
「今、中国からの帰りで東京に来ています。ぜひお会いしたい」とのことです。私はびっくりするやら嬉しいやら、早速、宿泊先のホテルヘとんでゆきました。
そしていろいろお話をしていた中で、いちばん印象的だったのは、絵本『三びきのやぎのがらがらどん』のことでした。この絵本は文も絵もブラウンさんで、彼女の代表作です。
「どうしてあの絵本が、あれほど日本人に読まれるのですか? 日本の子ども
は、あのノルウェーの昔話がなぜ好きなのでしょう」と質問されたのです。とっさのことで私は答えに窮し、「あのドラマティックな力強い物語と、それにピッタリ合ったすばらしい挿絵の魅力でしょう。要するに絵本としてみごとな出来栄えですから」といった、ありきたりのことしか言えませんでした。
「でも、アメリカでよりも、日本での方がよく売れているのですよ。なぜでしょうか」とたたみかけられ、その場で納得のゆく説明ができませんでした。その後ずっと、これは私にとって大きな課題となっていました。そして日本での読者の反応や評価などをもとに、考えつづけました。その結果、あの絵本が日本の子どもに受けいれられ歓ばれる最大の理由は、訳者の瀬田貞二さんの日本語の文章の力だと思いいたりました。
わが国の古典文学に精通し、日本語の粋と、言葉が子どもに働きかける力を知りつくしていた瀬田さんの文章力が、ブラウンさんの絵にゆたかに秘められている物語る力を、みごとに引き出しているのです。
瀬田さんの訳文は、いわゆる子ども向きの甘くやさしい表現ではなく、幼児にはむずかしい言葉やいいまわしが、大胆に使われています。しかしその言葉の選び方や組みたて方はみごとで、文体の力強い響きやリズム、そして調べが、子どもの耳にまっすぐに伝わり、気持をわくわくさせます。子どもは本来、実に良い聴き耳をもっていて、言葉の力を微妙に鋭く感じとり、我を忘れて言葉の世界にはいりこみます。
子どもが歓ぶ絵本には、共通した特徴がみられます。声に出して語られる文章が、それぞれ個性的ですばらしいのです。絵本はその文章を音読し、耳で聴いてみてはじめて評価できるのです。因みに、『三びきのやぎのがらがらどん』は1965年の初版以来、約200万部の発行部数を記録する大ベストセラーです。松居直』
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この他に、神沢利子さんの新書★『鹿よ おれの兄弟よ』 神沢利子 作 /G・D・パヴリーシン 絵は、新刊ライブラリーで取り組まれているものに共通するものがありそうで、早速読んでみたい。神沢さんのコメントも載っていたので紹介します。
『欲ばらず、むさぼらず、すべてのものに精霊の宿りを信じ、いのちへの畏敬を忘れなかったわたしたちの祖先の思いを伝える少数民族の人びと。その思いをわたしも伝えたいのです。今を生きる日本の子どもたち、世界の子どもたちへ。そしてこの物語の故郷、ウデヘ族や少数民族の人々、なかでも子どもたちへ。そしてできるならば彼の地へもう一度訪れて、この物語のうまれるきっかけを与えて下さった猟師のスサンさんに、この本を見て戴き、よろこんで戴きたいと心から願っております。』
興味のある方は、福音館のHPでも見ることができますよ。
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最近読んだ本の中で、絵本の世界で遊べない子どもたち(傍観)ということについて書かれていた。
何もしないで、じっとしている子どものことを積極性がないとか、消極的で行動的でないとか、物事に興味がないとか思ってしまう。しかし、子どもたちは、じっと見る「傍観」しながら考えているのです。その仲間に入れるかどうか?その遊びは自分でできるか?そのルールは知っているか否か?じっと見ている傍観しているということは、物事に興味を示さないと否定的で低次元化していくという考え方でなく、見るということは、単なる傍観でなく興味を持って見ているということであり、いつか手を出そう、仲間に入ろうとする前提であるという肯定的な高次元化していくという考え方がある。子どもの様子をいつも否定的に見るのではなく、発達の過程の中での様子と見る肯定的な見方をする。「傍観」ということが、子どもの遊びの発達の最も低次の段階として位置付けられている分類法がある。
[「独り遊び」→「傍観」→「並行的遊び」→「集団遊び」(連合遊び→組織的遊び)の順に高次元化していくという考え方。]プラッツの「グループ活動の発達より
「傍観」が遊びからの回避、遊びへの拒否として、遊びの反対のカテゴリーとして捉えるのでなく、遊びへの連続性を持つものとして認められているのが興味深い。
なかなか自分の思いを表現できないでいる子も、心の中でしっかりと考えている。いつかその子が自分から表現できる日を、じっくりと待つことの大切さを改めて確認し、そうやって受け入れてもらえることを実感できた子どもは、きっと自分の思いを表現できるようになるんだろうと思う。日本の教育では、人と違うということをとても嫌う傾向にあって、こんなことを言ったら笑われるだろうか?とか嫌がられるんじゃないかとか考えて意見を言わなくなってしまうことがあるようだ。かく言う私も学生の頃は手を上げて発表するのが大嫌いだった。でも大人になると言わないで済むことと言わなくてはいけない事があって、その見極めが結構大変だったりするんだけど・・・・・
今日ラボっ子のお母さんから、テューターは子どもに夢を与える仕事をしているんだから、いつまでも輝いていてくださいと言われた。ちょっと嬉しいような恥ずかしいような?着飾って輝くのではなく、内面から輝けるようにこれからも色んなことに興味を持って努力していこう!!
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随分前に、宮崎の松崎Tの息子さんが出演されると聞いていて、トム・クルーズが撮影の為京都に来ている時から、この映画に出るんだなと漠然と見ていたのに、あれよあれよというまに話題の中心になっていて、大変な映画に出演できた彼はほんとラッキーだったなと思いながら見てきました。よくここまでアメリカの人たちが侍を表現できたなと感心し、日本人の凛とした立ち居振舞い、身のこなしにやはり日本人でないと、こんな表現はできないなとトム・クルーズを脇で固めた役者のすばらしさに、日本人としての誇りを見る気がして、日本人の侍スピリットはいつまでも無くさずに生きていきたいなと思った。
渡辺謙も良かったけど、真田弘之がかっこ良かった~!なんかトム・クルーズと顔つきが似ているような気がしたけど気のせい?なんか久しぶりに時間が経つのも忘れて映画の世界にどっぷり浸って楽しめました。アカデミー賞の候補になるのもうなずけると思った。でも助演でなくて主演では?と思ったのは私だけではないと思うけど・・・・・
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昨日放送のフジテレビ系金曜エンタテイメント「STAR’S ECHO~あなたに逢いたくて~」見ましたか?佐賀出身でMパーティーの元ラボッ子だった中越典子ちゃんが、韓国語に挑戦しながら頑張っていました。感情表現だけでも大変なのに、良くあれだけたくさんの韓国語を覚え演じているのを見ながら、やっぱりラボで育った何かが生かされているのかな?とても自然に言葉を発していたような気がしたけど、親近感を覚えているせいかな?
先日Mパーティーの中高生のラボ中に彼女から電話があったらしく、みんな大興奮。ラボで貰ったものってたくさんあるし、言いたいこともいっぱいあるけど、まだ自由に発言できないので、もう少し時間が経って偉くなったらラボのことも話をしたいと言ってくれたそうで、その日がくるのが楽しみ。これからもどんどん大きくなって人気者になっていってほしいな!このドラマすごく頑張ったから見てくださいと言っていたそうだけど、みんな見たかな?
今日は息子のバレー部の市郡戦を見に行ってきた。冬の体育館は寒くて、動いている選手はいいけど、ベンチで応援している子どもたちはさぞ寒かろうとユニフォームで上着も着ていないのを見ながら心配になった。2階で応援している父兄も寒い。ストーブ持込の学校もあって、冬場の応援はホント大変。変な所に力が入っていつもの2倍疲れてしまった。いつも思うことだけど、同じスタートラインで始めた子どもたちが、監督や一緒に集まった仲間に影響され、毎日の練習内容の違いで、1年経つとレベルがぐんと違ってくる。監督の関わり方も学校によって様々。何を目的としているのか?選手に何を要求しているのか?監督の考え方一つで、チームの雰囲気から選手の動きがガラっと違ってくる。子どもたちはやっぱり勝ちたいと思っているのだろうけれど、監督の試合中の暴言を聞くと、この人はきっと自分のチームが勝つことだけが目的で、自分を満足させるためにやっていて、子どものことなど考えていないんだろうなと思ってしまう。言われている選手はどんな気持ちでその言葉を受け止めているんだろう?そうやって育てられた子どもたちは、劣等感や自己否定感がたまって身体が萎縮していかないかと余計な心配までしてしまった。学校によっては、中学生の成長期にとことん鍛えて体を作ってしまって、あとあとスポーツ選手として使えなくなってしまうことがあると聞く。勝つ為だけの部活でなく、楽しむ為のスポーツもあってもいいんじゃないかな?勝つ為だけにやっていると、上手い子はずっと出番があるけれど、同じように練習してきても一度も試合経験のないまま卒業していく子どもたちがいる。そういう子も救われるような部活のあり方を考えてほしいなと思っている私は甘いのかな?
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今日は、久しぶりに美術館までブライアン・ワイルドスミスの原画展「おとぎの国のファンタジア」に行って来た。絵本はよく目にして読んでいたし、好きな作家の一人で、原画を見るのはこれが初めて。さすが「色彩の魔術師」一つ一つの作品が実に細かく、たくさんの技法を使って描かれていて、ひとつひとつじっくり時間をかけて見ることができた。絵本の印刷では分からない鉛筆の線や、クレヨンやペン、切り抜いた絵や貼り絵、他にも見たことがない技法がたくさんあり、一体この色はどうやって出しているんだろう?どうすればこんな風に描けるんだろうと思いながら、久しぶりに絵を堪能してきたという感じ。去年ワシントンDCのスミソニアン博物館でモネやルノアール、ゴッホなどの絵を見ることができたが、1時間という超短い時間でじっくり見ることができなかったので、今回はゆっくり時間があって良かった。トールペイントを始めてから、今まであまり気にせずにさっさと見て済ませていたものが、今はどうやってするんだろう?これは自分でも試してみようとかいろいろ考えながら見ることができた。興味のない時は素通りしているものが、何かをきっかけに広がっていく世界が、また人を豊かにしていくのかな?
まだ見ていない人は是非見に行って、ワイルドスミスの芸術の世界を見てきてください。ホントに絵本は、子どもに与える最高の芸術作品。たくさんの絵本に小さい頃に出会った子どもは、きっとたくさんの芸術作品に出会っているんだろうな。こんなに手頃で身近にある芸術を、たくさんたくさん出会わせてあげたいな。一枚の絵の中に、画家はたくさんのメッセージを込めて描いているんだなとワイルドスミスの絵を見ながら改めて感じながら帰ってきた。
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