幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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フェニックスの日記
フェニックスの日記 [全1154件] 481件~490件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
市国際交流フェスティバルで国際交流パネルを展示 02月10日 ()
 ラボの活動を知ってもらうためのセールスマンを自負しているフェニックスは、2月4日(日)日曜返上で県国際政策課と県国際交流協会の共同主催の「国際交流・協力団体強化育成講座~行き詰まりを打破!みんなどうしているの?」に参加した。
 講師は、佐賀市NPO地球市民の会代表 古賀武生氏。歯に衣着せぬ物言の中に情熱が光る人である。フェニックスは過去に2度お会いした事がある。最初に会ったのはもう15年以上は前だと思う。国連英検A級、実用英検1級保持者で、まだ若かった氏は自信に溢れていた。「英語と刀は切れなければ意味がない!」と強い口調で言っていたのが印象に残っている。それから2回目は5年程前、コンベンションルームで開催された国際塾でご一緒した。大病を体験された後だと言う事で少し痩せておられた。言葉が丸くなっていた。そして今日、体験を重ねた氏の熱い情熱が伝わってきた。宮崎県内のさまざまな団体が参加していて、ネットワークの構築にとても良い機会だった。

 そして今日は、宮崎市国際交流協会主催の国際交流フェスティバルに昨年国際交流に参加したラボッ子のパネルを壁面一杯に展示した。壁一面を彩る笑顔輝くパネルはとてもすばらしかった。どんな人もその壁面で思わず足を止め、写真に見入っていた。
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硫黄島の手紙62年目に 02月08日 (木)
 硫黄島戦後、海兵隊所属だった当時18才だった米少年兵が島から持ち帰ったカバンの中には手紙が納められていた。当時は記念品として持ち帰った手紙とカバン・・・。
 映画「硫黄島からの手紙」の上映がアメリカ全土で展開され、それがきっかけとなって、62年の時を経て、遺族に返還されると言う。
「クリントン・イーストウッドが少し背中を押してくれた。」とかつての少年兵は言った。
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心に夢を! 02月07日 (水)
 受験シーズン真っ只中。それぞれの夢を描きその実現に向かって頑張っているラボッ子、幸運を祈ります。受験以外でも、みんな「夢」を持っていますね。実現可能な夢、大き過ぎて果てしない夢。でも、夢は無限大なのです。心配しないで、超~~~~でっかい夢を夢見て毎日を過ごすと楽しいですよ!
 C.Wニコルさんは、12才の時描いた夢「カナダで森林警備隊になる!」という夢を17才で実行に移しましたが「心を先に送っておけば、きっと叶う」と名言しています。みんなが自分の体からはみ出すように大きな夢を描いてくれたらいいなぁ~、と思う2007年の春。
 節分は過ぎましたが、節分の日に恵方へ向って願い事をしながら太巻きを丸かじりすると願いが叶うとか・・・。誰かためした人はいませんか?(^^)
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「まつりの後」こそ・・! 01月30日 (火)
 福岡空港から飛び立った時は、もう陽はとっぷりと暮れていた。福岡市の明かりがダイヤモンドをちりばめたかのように眩しい。飛行機は九州山地を越え、40分で宮崎に到着する。宮崎市上空も、海岸線に沿って光の帯が光っている。国道や県道を小さい光が列をなして移動しているのが見える。
 フェニックスが身近に夜間移動したのは、11月のバンコク⇒カルカッタと12月のシェムリアップ⇒バンコクだったので、きっと日本の都市の光が眩く感じたのだろう・・。スペースシャトルからもはっきりと形が見えるという日本列島。二酸化炭素の増加による氷河の6cm/年の後退、今年の異常な程の暖冬の警鐘。
 都市光群に「豊かさ」よりも「危機」を感じたフェニックスである。
「ひとつしかない地球」の危機を感じ、そのために考え行動しなければならない。「広場」や「まつり」の成功にうかれている場合ではないのである。
 
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「大人になったピーターパン」にパパ感動! 2 01月28日 ()
 小6M(女)、小4S(男)姉弟の母と話す機会があった。
「パパが『ラボは大人になってから良さが分かるんだから、すぐの結果を期待したらいかん』と言うんです。」とママ。「財団から送られて来た『大人になったピーターパン』を私には内緒でこっそり読んでいたらしく(笑)、夕べはラボの事をさんざんパパから聞かされて、良く分かりました。『下の子も早くラボに入れろ』と言うんです。4月からお願いして良いですか?」

 え~~~っ、そうなの~~(*_*)!!!
あの本に、そんなパワーが・・・あったとは・・・!!!

 もう一度じっくり読み直して、持っていない父母に購読を勧めなくては・・・。
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日韓ラボ研修交流 01月20日 ()
 今年の九州支部総会では、総会議事終了後釜山ラボのメンバー十数人を迎えて「The Mitten」を一緒に体験した。
 「参加してとても楽しかった!」「小道具を使わず、身体で表現できるのに驚いた。」「ひとつの役を数人でやっても構わないのだ、という事を発見した。」「意見を交換しながら創っていくプロセスがとても楽しかった。」
 初めて「テーマ活動」を体験した釜山ラボのメンバー(テュ―ター/研究員/ラボ団の指導教師)は口々に自分の感想を述べた。
<※ラボ団:韓国ではボーイスカウトたガールスカウトのように青少年教育の一環として、小学校での週1回のラボ活動(クラブ活動)が認められている。>
 韓国ラボは日本ラボに倣っておよそ30年前設立されたが、政治状況の変動等で交流が途絶え長い間空白の時が過ぎた。そして、2001年に交流が再開され、九州からは毎年釜山ラボと相互交流を行っている。交流がなかった間にそれぞれが違った形で進化してきた同じLABOの名を掲げる日韓の団体が共に学び合う第一歩。ポスト40周年の一歩を飾るに相応しい会合となったと思う。
 
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ゴールデン・グローブ賞受賞 4 01月16日 (火)
 夕方、偶然つけたTVで「硫黄島からの手紙」がゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞受賞を受賞した事を知った。

 さっそくネットを検索してみた。↓
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/entertainment/ioujima/
外国語映画賞に「硫黄島」 米ゴールデン・グローブ賞 (共同通信)
 【ロサンゼルス15日共同】米アカデミー賞の前哨戦とされる第64回ゴールデン・グローブ賞の発表・授賞式が15日行われた。第2次大戦中の激戦地、硫黄島を舞台とした「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)が外国語映画賞に輝いた。「硫黄島からの手紙」は、先に公開された「父親たちの星条旗」と2部作で、戦争の矛盾や悲惨さを日米それぞれの兵士の視点で描き話題を集めた。[ 2007年1月16日13時22分 ]

歴史に残る作品に関わらせてもらった事、人との出逢いは、彼の財産である。
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<松崎悠希の言葉>(カルチュラル・ニュースより)
本当に良い経験をしました。そして色々な事を学びました。
文字に書かれた人物をどうすれば「現実」に持ってこれるのか。
血の通った人間として観客に伝える事が出来るのか。
それだけに全精力を費やしました。
役作りの為、撮影終了までの5週間、
殆ど何も食べなかったので30ポンド近く痩せました。
全ては「野崎」を生きた一人の人間にする為です。
彼がどのように生き、どのような思いを持って死んでいったのか、
それが観客に伝わればこれほど嬉しい事はありません。

「日本兵」は「日本人」であって、
生まれついて「日本兵」だったわけではありません。
彼らは一人一人に独立した人生、そして家族があったのです。
これまで無個性に描かれる事が多かった「日本兵」は、
この映画によって、無限の彩りを手に入れる事でしょう。
クリント監督、本当にありがとう!
http://cn4japan.exblog.jp/4808214/
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貧者主役のビジネス 01月14日 ()
 昨日の地方紙の16面に、昨年ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏の特集記事を偶然見つけた。彼が始めたグラミン銀行で融資を受けている人は、現在全人口の5%に当る約700万人という。家族を含めると、実に総人口の3割以上が恩恵を受けているのだそうだ。類似のマイクロクレジットも花盛りなので、多分国民の半数以上にとって「マイクロクレジット」に何らかの関わりを持っているに違いない。
 それを裏付けるように、私達が教育支援をしている子供達の家族デ―タに「〇〇のマイクロクレジットから6,000TK(約12,000円)借りて屋根の修理をした。」とか「△△のマイクロクレジットから3,000TK借りて家族の食料をまかなった。」という記述が見える。グラミン銀行ではないが・・。父親は日雇いの家庭が多い。月収1,000~2,000TK(約2,000~4,000円)でアップアップしている。今でも食に事欠いている。屋根の修理に回すお金はないので、当座は助かったと思うかもしれない。しかし、収入のアテがなくて本当に返済ができるのだろうか・・他人事ながらとても心配である。

 記事によると、グラミン銀行の回収率は99%だという。年利は20%。決して安くはない。「バングラデシュの2005年の経済は5%を超える成長率で、グラミン銀行は国全体の成長に貢献している」と新聞記事は伝えている。これをどう読んだら良いのだろう・・。貧困者数が減って全体の成長を押し上げているのか・・?それとも、20%の金利が順調に回って企業利益を生んでいるのか・・?
 見出しに「貧者主役のビジネス」と大きな文字で書かれてあった。多分、記者さんの意としているのは「貧者の自立に寄与している」という事なんだろう・・が(そういう地域もありのかもしれないが・・)、私達が関わっている北部では、それによっての豊かさは全く実感できない。子供達の置かれている厳しいデータを読むにつけ「無数に近い貧者を対象として伸び行くビジネス」のような気すらしてくる。
 
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バングラデシュからのメール 01月13日 ()
「バングラでは寒さのため,毎年幾人もの人が命を落とすと聞いていたので、心配していた矢先,とても悲しく信じられないニュースが飛び込んできました。たった一日半のうちに少なくとも 36人が亡くなったのです。寒さのためにです。彼らに温かい毛布や服が渡っていたら・・・,寒さに耐えうるだけの基礎体力をつけるため、十分な食にありつけていたら・・・。胸の中で何かぐるぐる渦巻いています。」今年のバングラデシュ滞在員MIKIからの初メールは、とても悲しい内容だった。

 私達が関わっているバングラデシュ北部のクリグラム地域は、バングラデシュで最も貧しい地域だと言われている。毎年洪水の被害に合い、学校での昼食が一日の内でたった1回の食事だという現実。
 一昨年、資金難で小さな病院が閉鎖された。今までは助かっていた人々が、間に合わずに命を落す事例が多くなってきた・・と、現地からの報告がある。冒頭の現地からのメールでも述べられている通り、「耐えうるだけの基礎体力」があれば、病気にならずにもすむ。そのためには、軒先にでも、芋や野菜を植えて餓えをしのぐなどの工夫が必要になってくる。しかし、外を見た事のない貧困に喘ぐ人々は、考える事すら停止してしまったように提案しても無反応である。

 私達は、STOP CHILD LABOUR! を訴え現地NGOに協力して、そういう境遇の家庭の子供達の基礎教育(小学校教育)をサポートしているが、「小学校卒業後」については、まだまだ困難が立ちはだかっている。特に女子はDVの被害に遭ったり、人身売買の危機に遭遇する危険度が高い。昨年一人の女の子がDVの被害に遭って12年の短い生涯を閉じた。保護施設の必要性を感じる2007年の春である。
<2007年1月現在、小学校教育里子75名(今年1月に新1年生になった20名を含む/←新1年生の教育里親継続募集中!)、中学校里子3名。>
 http://www3.ocn.ne.jp/~m.labo/h/
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赤紙1枚の紙一重 2 01月08日 (月)
 「赤紙1枚が生死の紙一重だった・・・」と父(89才)は言った。父と一緒に観に行った「硫黄島からの手紙」が終了して、帰宅する車中で父は続けた。「私は朝鮮半島に出征したので爆撃や殺し合いは無縁だったが、前線はああいう風だったんだろうな・・。」昭和14年出征(父、当時21才)
 父が送られた朝鮮の連隊は、平嬢(現在の北朝鮮)だったと言う。父の任務は軍用飛行場の警備。本土は焦土化しても、米軍は朝鮮半島には全くと言っていい程、爆弾を投下しなかったらしい。その後、ノモホン事件が起きる。そして、大東亜戦争開始。戦局が激化していく中で、そこ(平嬢)から新たな連隊が組まれて南方へと送られて行ったのだそうだ。自分達も送られる運命にあったのだが、何かの手違いで2日間ずれて難を逃れたという。「あの時、南方へ送られた戦友とはそれっきり会っていない・・・。」と、父は遠くに目をやった。父は、その後、留守部隊を預かる任務についた。
 終戦。そして、日本への帰還が決まり、船に乗せられた。ところが、船は日本と反対の方向、北をめざした。ウラジオストーク⇒ナホトカへと輸送され、それから4年間凍土のシベリアでの捕虜生活を体験した。

 帰宅してから、父は古い写真を取り出した。若い父の両側に父母が座り、後方に姉と妹、弟2人、昭和14年、出征前に写った家族写真である。

 この「紙一重」の運命の結果、私が、そして私の子ども達が現在存在している。
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