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私が気にかけているパーティが、「なよたけのかぐや姫」のテーマ活動に取り組んでいるのでエールを送りたい。・・・・・と言ってもこちらの勝手で・・・
私一人が「なよたけ・・・・」の世界に浸りたいだけかもしれない。
合同パーティの様子をホームページで覗いてみると、ラボ活動の幅広さを思うと同時に小さいラボっ子の感性のみずみずしさに思わず微笑まずにはいられない。
このパーティでしかできないテーマ活動の発表が出来上がることだろう。
ラボCDの「なよたけのかぐや姫」は、秦恒平さんの素晴らしい日本語。リズムよく、格調高く、古典の味があって新しい。まさに声に出して読みたい日本語である。
これを語るラボっ子は素晴らしい。幸せである。
( 秦恒平さんはこの日本語を依頼されたときの思いを自身の本「死なれて 死なせて」の中で書いておられ、ぜひテューターは読むといい本だと思うけれど、手に入るかどうか。私の蔵書も誰かのもとにいってしまったし。)
私のパーティが「なよたけ・・・」に取り組んだのは、いつだったろうか。
4話を全部発表し、2時間の発表は、やるほうも見るほうもたいへんだった。
竹藪の持ち主の方にお願いして竹を切らせてもらったが、大変で、高大生たちが血だらけになって切ったことも覚えている。
パーティの文集を出してみた。1992年だった。「え~。20年以上も前のことか!」と驚いた。
私にとっては「なよたけ・・・・」は比較的新しいCDだと思えるのだ。本当にラボライブラリーの層は厚い。すごい物語の宝の山だ。
1992年の文集には私を喜ばせる当時のラボっ子の感想文がいっぱい乗っている。その中の一つ。中2の子が和歌に興味を持ち原文から調べてきたものが載せてある。
*石作りの皇子
海山の 路に心を つくし果て
みいしの鉢の なみだながれき
(あなたの注文のみ石の鉢を取りに行くのに、海山の旅路に苦心の限りを尽くしましたので、鉢の「ち」ではありませんが、血の涙がながれましたよ)
*かぐや姫
おく露の 光をだにぞ やどさまし
をぐらの山にて なにもとめけん
(せめて草の葉におく露ほどの光だけでもあったならよかったのに、黒いばかりのこの石、あなたは小倉山で何を探していらっしゃいましたの)・・・・とかいて鉢と一緒に返しましたので皇子はまた・・・
*石作りの皇子
白山に あえば光の 失するかと
鉢を捨てても たのまるるかな
(小倉山ならぬ白山のようにかがやく美しいあなたにあったので、鉢も光を失ってしまったのでしょう。私は、鉢=恥を捨てても、まだあなたへの思いは捨てません。)
*倉持の皇子
いたずらに 身はなしつとも 玉の枝を
手折らでさらに かえらざらまし
(私の身はむだにしましても、あなたが欲しいといわれた玉の枝を折らずには、決して帰らなかったでしょう。それは同じようにあなたをいただかないでは、帰りませんよ。)
*かぐや姫
まことかと 聞きて見つれば 言の葉を
飾れる玉の 枝にぞありける
*阿部の御主人
かぎりなき 思いにやけぬ 皮ごろも
たもとかわきて 今日こそはみぬ
(かぎりなくあなたを思う私の胸の火にもやけない皮ごろもが手に入りましたので、今日こそは明るい気持ちでこれを眺めましょう。)
*かぐや姫
なごりなく 燃ゆと知りせば 皮ごろも
思いのほかに 置きて見ましを
(こんなにあとかたもなく燃えてしまうと知っていたなら、火にいれたりしないで眺めていましたのに。)
*帝
帰るさの みゆきものうく 思ほえて
そむきてとまる かぐや姫ゆえ
*かぐや姫
葎はう 下にも年は 経ぬる身の
何かは玉の うてなをも見ん
(むさくるしい住まいに長年すごしてまいりましたわたくしですもの、どうしていまさら、玉の御殿になどまいれましょう。)
今はとて 天の羽衣 着るおりぞ
君をあわれと 思いいでぬる
(今はもうこれまでと、天の羽衣を着るときに、あなたさまをなつかしくおもっております。)
*帝
あふことも なみだにうかぶ わがみには
死なぬ薬も 何にかはせむ
(もう姫に会うこともないと思うと、涙が流れてわが身も浮かぶほどです。このようなわたくしに不死の薬など何の役に立ちましょう。
テーマ活動中につくったタペストリー
物語の各場面のイメージ
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本の整理は難しい。
整理がはかどるどころか、本を手に取ると、考え込んだり、あのとき、あのころのことを思い出したり、そのまま読み返して、再度感動したりしている。
「風と木の歌」は安房直子さんのファンタジー短編集。
読み聞かせにちょうどいい長さなのでよく読んだなぁ、と思ってみていると、解説に山室静さんの名前を見て、懐かしかった。
ラボのテープ委員会をしていたころ、児童文学にのめりこんでいろいろ読んだ。
さらにそのころ読んだファージョンの「りんご畑のマーティン・ピピン」を手にしたら面白さに、以前よりも楽しんで読み直していた。
この壮大な恋物語ファンタジーはすばらしい。
扨、からりと変わって、今手元にあるのは、荒俣宏さんの「福助さん」
こんな本を買ったんだと、再び中を見る。
福助伝説とか、福耳をして裃を着て赤い座布団の上に正座している。
江戸中期から「財を成し福を招く縁起物」として商家の店先に置かれた。などなど、福助についての雑学が書かれている。
私は福助が好きというか、何か縁を感じる。
小さいとき、床の間に瀬戸物の福助さんが座っていた。
ラボで海外にラボっ子を送り出していたころ、日本的なおみやげを買いに時々訪れていた手作り細工のお店に、木彫りの品のいい福助さんが座っていた。
商品ではなく、店の品物の中に座っている。値段はついていない。
何度行っても、その福助さんが気になり、売り物ではないからというお店の奥さんに頼み込んで、私自身で「値」をつけて譲り受けてきた。
その木彫りの福助さんは、ときどき私の手で撫でまわされて、何十年も我が家の床の間に座っている。
そしてこの福助さんは、私のキャンバスの中にも入っている。
愛されて福々しい顔で、我が家を、家族を見守っていてくれる。
木彫りの福助と木目込みのお福さん 油絵 10号
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ラボ・パーティをやっていた時代、文庫を併設してラボっ子たちは絵本を見たり、本を読んだり、していた。
貸出し用の本は2千冊余りあったと思う。またラボの物語の周辺に関する本や資料もそろえていた。マザーグースやアリス、ナルニア、ピーターパンや大草原。それに付随する妖精やノームの本など。よくもこれだけ買ったものだと。どれも私の思いのこもった好きな本ばかりである。
テューターをやめて十数年。半分くらいの本は適当な時に、一番適切と思われる人にさし上げてきた。 まだまだたくさんある。
本の大整理をすることにした。児童向けの本などは、ラボっ子の子供(孫世代)にどんどん渡してきたが、彼らも大きくなっていく。整理するのは「今だ」と思った。
ずーと持っていたい好きな本。
子供向けの本は大体の年齢を考えて仕分け。
ラボに関係のある本。
普通にお愛想になる本。 などなど、考えて整理していく。 大変なことである。
さて、整理していると、読んだはずなのに、「これ、なんだったかなぁ。読んでみよう。」
と思う本が出てくる。
本は同じ本でも、読む時期によって感じ方が違うものである。
* * * * * *
「わが祖国チェコの大地よ」・・・・・ドボルジャークの物語である。
チェコのプラハに行ったとき、人形がすごくたくさん売られていた。そのときチェコは歴史的につらい時期侵攻をうけて自国語を奪われたとき人形劇の世界だけは自国語が許された、と聞いた。
そのことが、ドボルジャークの生い立ちからもひしひしとわかってきた。
おお、スラブ人よ!
我々のスラブ語は 今も生きている
我々の祖国への誠実な心が 脈打つうちは
生きている
生きている
長く生き続けるであろう 自由な精神
稲妻と地獄
他人には無用なものも
われわれにとっては 怒りの力
そして有名なカレル橋。
その時代から傷心の若者たちを慰め続けてきた。
私がその歴史的な人物像が並ぶ不思議な力を感じる橋をゆっくりゆっくり歩きながら・・・
またそれを描いたとき以上に、感激してしまったのは、今とほとんど同じたたずまいの橋の写真を、ドボルジャークの当時のものとして見たときである。
以前、読んだのは、プラハを知らない時、旅行をしただけで、この感激。気になったら本は読みなおしてみよう。
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毎年夏の暑さが耐え難いものになってきた。涼しいはずの高山市でさえ、30℃を超える日がある。
高山市街地から30分の荘川は、高山市に含まれるようになったのだが、標高が1000メートル余りあるおかげで、10℃ほどの差がある。
この夏も、21℃から24℃で、クーラーもうちわもなく過ごすことができた。
この荘川にお盆休みのころは家族が集まるのが恒例となっている。
18歳になる孫が生まれる年に建てたロッジは、家族のほかにもいろいろな人を招いてたくさんの思い出を作ってきた。
家族で過ごす夏も、孫の年齢によって過ごし方が違ってくる。このロッジを根城に近隣の町を訪れたり、動物と触れ合えるところ、物づくりのできるところ、などなど・・・・・
さて今年、どこへ行こう! と考えて、…一番近い高山でいいや、ということになり高山散策となった。今までは、高山で買い物をしたり、簡単に車の駐車ができるところですましていたようだ。
私自身はなんども高山の古い町の観光をしているし、街並みのあちらこちらを絵にしようと、歩き回った町でもある。観光客で込み合う店を見て歩くのなど、中学生の男子が楽しめるのかと、少々案じていたが・・・・・
小雨の高山。古い町並み「上三之町」を中心に、観光地図を片手にぞろぞろと観光客の一員となって歩いた。
私にとっては2,30年前の懐かしい店。私のキャンバスに収まっている店も、張子の動物、和の小物・うさぎ尽くしの店も、味噌づくりの店、酒屋、などみんなそのまま。
でもなんとなくどこかが変わってどこか新しさが加わっている。そして「なに、これ!」と驚いたのはあちらこちらにできている行列。 それはみな食べ物や。
若い観光客はおいしいものとなれば、並ぶことをいとわない。ネットで調べ、遠いところからも食べにくる。
一番人気は飛騨牛の握りずしのようだ。飛騨牛の肉まん、おやき。飛騨牛コロッケ。 みたらしだんご(醤油の味が香ばしい昔ながらのもの、えごまをくわえた今風のものなど)。あちらこちらでのテイクアウトの食べ物は中学生を十分に楽しませてくれた。
超シニアの夫婦は半分は喫茶店で休むことにしたが、最後にまた行列の高山ラーメンをたべて、散策の終わりとした。
中学生は「喰い疲れた!」というくらい満足してくれた。
私は町が若い観光客であふれ、キャンバスの中の店も当時より新しさと活気に満ちていたのがうれしかった。
高山の店先・3部作 (油絵・30号)
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暑い夏、学校も夏休みに入り、あちらこちらで花火大会が行われる。
私は生まれ育ったのが長良川の近くだったので、戦後の社会が落ち着いて花火大会が始まったころから、花火大会というと見にゆくのが当たり前のように思っていた。
その頃の花火は今のように空に休みなく花火が開くというのではない。次の花火が上がるまで暗い空がある。たいくつなものだった。
花火は筒から離れるときに「ぽっ」と音が出る。そして小さい火の玉が「ひゅーひゅー・・・・」と音を立てながら上がっていって、「ぱあぁ・・・」と開いてやがて「どっかん!」と、なるのだ。
「長良川全国花火大会」が始まったころ、私の家の前は市電が走っていた。その電車が花火大会の日は、交通規制のため、長良川まではいかないで、その手前で止まってしまうのだ。その人たちが私の家の前をどんどんと河畔に向かって歩く。その人波を見るのも面白いし、また花火が始まると、花火の音が窓ガラスに響くくらいでとても家の中には落ち着いていられないので、近所の人たちみんなで椅子や縁台をもちだして、おしゃべりしながら花火を見るのだった。
遠くから花火大会のために長良河畔まで来た人たちは、帰りもまた大変。花火が半分ぐらい済んだ頃には人波が反対にながれだす。
花火の上がる空を背にしてどんどん歩く人波が増える。そこでちょっといたずらがしたくなる。
「あがった!あがった!」と叫ぶと、歩いている人波が一斉に振り向く。・・・「なーんだ」
と思った頃「どっかん」と上がって、また暗い空にかえる。大笑い。・・・
結婚してからは、長良川からは距離ができた。
でも、当然花火大会の日には実家に帰ってみることになる。
実は、その時、私は妊娠10ヶ月になっていたが、若い妊婦は怖さを知らない。
私が花火大会にいくときいた近所のおばあさんが「気を付けていきなさいよ。百人の声を一度に聞くと生まれるといいますよ。」と注意してくれた。
昔の人は日常の生活の中に知恵を持っていて上手い言い回しで教えていたものだと思った。
大きなおなかで人ごみに出るのは、気を付けたほうがいいということ。
花火から帰ったあくる日、私は長女を出産した。幸い無事に生まれたが、予定日を2週間ばかり早めた出産だった。
それからは、子育て。ときどきは実家に行って花火を見た年もあるが、時代も進み、あちらでもこちらでも、花火大会がある。内容もいろいろ。何千発と打ち上げるし、いろいろ工夫を凝らした新種も出てくる。
年を重ね「あぁ、今夜は花火大会か」と、5,6年前、「久しぶりに長良川の花火を見に行こうか」と夫婦ででかけた。
途中まで車で行き、シャトルバスで会場へ。明るいうちから暑い堤防で座って待つ。
ビール片手に大勢の観客と一緒に見る花火は迫力とみんなの歓声、臨場感が何とも気分がいい。
しかし。「いきはよいよい、かえりはこわい」
一斉に帰る人たちの波が動く。シャトルバスまで3キロくらい歩いた。大変だった!
今年。「これにしよう」と申し込んだのが船上から見る花火大会。日南海岸に打ち上げられる一万発の花火。
ところが。あいにくの台風。急遽船会社の考えたコースは九州ではなく、横浜だった。
まあ、天候のことは何とも致し方ない。
今年の花火は客船のバルコニーから空いっぱいの花火を楽しんだ。一万発が3000発になってしまったが静かに夫婦で楽しむ今年の花火だった。
私のいたずらで押したシャッターにもうまく反応してくれた今のデジカメにも感心した。
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(画集より)つゆくさ (水彩画・1号)
朝日新聞に投稿される「歌壇」の項を愛読しているが・・・・・
新聞も販売店の読者争奪戦で、時々その口車に乗せられてしまう。
地方紙のいい面もあるのだが。
その契約期間も切れて、やはり朝日新聞に戻った。
久しぶりに歌壇を読んだ。
私にはこの欄に変な楽しみがある。
比較的近くに住まわれている方で私と同姓同名の人が時々入選されるのだ。もう何十年も前から和歌を詠まれていて、私よりややお年を召されているが、むかしは先生をなさっていて、絵も描かれ、手芸も好きと、いう方なので、彼女が全国紙の朝日歌壇に入選されると、私に全国から「おめでとう」と電話がかかったり、私が絵の個展を開けば、彼女のお友達が見にいらしたり。
お互いによく間違えられるので、一度「お会いしましょう」といって、あったことがある。
そんな彼女が・・・・・もうずいぶんのお年だろうが・・・・・まだ続けていらっしゃるかな・・・・・
と思ってみていると、・・・・・
久しぶりに彼女の入選作に出会えた。
牛膝・蛇苺・螽斯・飛蝗よ美濃の径草
トッツキムシ・ヘンビノマクラ・ギッチョンチョン・キチキチバッタよ美濃の径草
なるほど。
いろんな草が私の目の前に現れた。私の小さい頃は春になると庭や堤で草摘みをするのが一つの遊びでもあった。
今。今日この頃は庭の草取りに悩まされる時期でもある。
たしかに草を生やしっぱなしにしては困る。私の家の東側はまだ、農家の人の畑なので、うちの雑草が畑に入り込まないよう、その境目はこまめに草をとるようにしている。
花壇や菜園の中も都合の悪い雑草は遠慮してもらう。
でもそのほかは、木の植込みの間、ふきやみょうがの出る茂み、生垣のしたなどは適当で、雑草も結構楽しんでいる。
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10年前、近所の友達と二胡の演奏を聴きに行った。すると彼女は急に、「私、二胡でも習おうかしら。実はね、緑内障といわれたの」という。「目が見えなくなったら、楽器が弾けたらいいなと思って」・・・・・なんとも、重い話だった。
そんなことがあって、2,3ヶ月経った頃、ラボっ子OBがマスターをつとめるカフェのスペースで、「ウクレレとフラをやってるよ」というので、早速見学をした。
5,6人のメンバーがウクレレを弾いていた。
娘さんと一緒にフラが踊れて、バンドのボーカルをやりシンギング・セラピーとして弾き語りをし、コンサートのオファーも来るという、一人の女性を中心に同好会のようなグループとして始まったところだった。
普通のレッスン教室のようでないので、ちょっと戸惑いながらも、リーダーの彼女に魅力を感じて私も仲間に入れてもらった。
そしてすぐに、二胡の友達に連絡をした。すると「二胡はとてもむつかしそうなので諦めた。」と言って、元気がない。私の勧めで、一緒にウクレレとフラをやることにして、すぐにウクレレを買いに行った。
こんなふうに始まったフラのグループは、やはり熟年の女性にはいろいろ日常の変化や事情があり、続く人ばかりではない。はじめのメンバーは3人残っているだけだが、私と彼女は楽しくずっとと続けている。彼女の目も進行を抑えて、まだ心配はなさそうだ。そしてリーダーの彼女も歌って踊れる先生として忙しい。
我々のグループは彼女のコンサートでフラを踊る。非日常の華やかさ。人前で踊ることの気持ちよさが、気分を明るくし体を元気にしてくれるが、こんな自己満足でいいものか。・・・・・とつぶやくと。
毎回、「元気をもらったわ」とか「私もやれるような気になったわ」とか、言う声があって悪くはないらしい。
とは言え、群舞はむつかしい。グループの気持ちがひとつにならなければ、きれいに踊れない。長年ラボのテューター仲間と付き合ってきた私にとって、さまざまの人との付き合いは、じれったかったり、あきれたりの連続だった。
「今度のコンサートはどのドレスを着る?」と私が聞く。「そうねえ・・・」はっきりとした答えは返ってこない。「ピンクのにしようか」「あぁ、ピンク」。と、それだけ。
次の週。私はまだ決まっていないと思って、「ねえ、何を着る?」と聞くと、「ピンクでしょ。」という。こんな気持ちの悪い雰囲気だった。誰もはっきりとものを言わない。自分の意見を言わないで様子を見る感じ。・・・・・
ドレスもそろえなければならない。レイもいる。グループをまとめるにはそれなりのまとめ役が必要だ。知らず知らずのうちに私は私のように行動するようになっていた。周囲もそれを受け入れている。
できるだけ出費を抑えようと、レイや花飾りを手作りするのも私の仕事。安く造花を買ってきてグルーガンで好きに作る。ドレスにあわせいろいろ作るのも楽しい。
フラも一つのブームのように言われる。フラ教室の発表会というと、あまりいい雰囲気ばかりとは言えない。「フラダンスは腰をふる」と思われたら、もう間違い。体重移動の結果自然に動くのだから。
週に一度のレッスン。鏡に映る自分の姿。ハワイの人が踊るように自然に踊りたい。踊った後の汗ばんだ体が気持ちがいい。元気で踊りたい。
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ギャッベ(GABBEH)との出会い
連休は遠く離れて暮らす娘、息子家族が来てくれて、高山、荘川のセカンドハウスで楽しい数日を過ごした。子供たちが成長すると家族全員が集合するのも容易ではなくなる。そんな意味でも貴重な時間であった。
標高1000メートルの高原はまだ少し雪が残り、土筆やふきのとう、こごみなど少し遅い春を味わうことができた。有名な荘川桜も見ごろを迎え、あちこち楽しんでいた中で、私を20数年前に引き戻す出会いがあった。
それは
ギャッベ!?
(GABBEH イランの遊牧民カシュガイの 草木染め絨毯)
私たちが好んで訪れる高級な木製品を製造しているオークヴィレッジ。
そこに「ギャッベの特別展示場」としてあった。
はじめは、ギャッベ? 「あぁ、絨毯か」と思いながら会場へ入り、製品を見た途端、ハッとした。
私は「キルム?」とつぶやいた。
「はい、キルムもございます」といってスタッフが奥を指さした。
どちらもイラン遊牧民が昔から代々受け継ぎながら織る織物で、キルムは平織の布。比較的軽く、寒さしのぎにかけたり、くるりと巻いて手軽に持ち運べる家具という感じで使われるらしい。
20数年前、私はキルムと出会い、赤を基調としたその色の美しさ、その文様の個性的な美しさに魅かれた。アートとして眺めていたかったと思う。
そしてその頃買い求めた「キルムのある部屋」(ナデール・モラディアン監修)は、私のときどき楽しめる本として大切にしてあった。
キルムもギャッベも遊牧民の女性たちがその豊かな感性で、家族の幸せを願う文様を織り込むのである。
そうした、ある民族に古代から受け継がれた手工芸品には、人間としてのしあわせでありたいという願望、一方で人間ではどうにもならない自然界への畏怖の念。
そこからさらに強い魂の叫びが伝わってくるように思える。
そしてその手工芸品は立派なアートである。
私はそんな民芸品に出会うと、(ほんの遊びでしかないのだが)それを何とか自分の身近に取り入れたくなって、いろいろ工夫してみる。
今思い出すものとしては、アイヌ民族にはまっていたころ、アイヌの布に施してある刺繍を自分でやってみたこと。
また、ある時出会った「モラ」(カリブ海の小島、クーナ族の女性が幾重にも重ねた布で模様を描き出す手芸)の展覧会で、実際に現地の女性の使ったモラを手に入れた。作りたいと思っても、3色、布3枚くらいで作る簡単な絵柄しかできない。
買い求めたすてきなモラは、バッグに仕立てた。
こんな熱く生きていたころを思い出し・・・・・・
さて、静かな山里、素朴な中に暖かさのあるギャッベの展示会場。どれもいいなあ、と眺めながら、身辺の整理をはじめようとしている後期高齢者の身としては、「欲しい」という欲望は出てこなかったが、そこにおいてあった売り物ではない「本」が欲しいと思っていた。
こんな、私の心の動きとは別に、ふと気が付くと、ちょうど自分のリビングに絨毯が欲しいと思っていた娘が、ギャッベに心を動かされたらしく、孫を交えて品定めをしていた。
何とも素敵な出会い。娘の気に入ったものがあって、気持ちのいい買い物をした。
そのおかげで、私は欲しい本、「GABBEH」をプレゼントしてもらった。
その夜、ロッジで家族はトランプに興じた。何回もwinnerをとり続ける娘に「ギャッベの神様の精だ!」と、みんなが冷やかした。
エネルギーを感じ、喜びを感じる買い物ができたことはうれしい。
「GABBEH」 向村春樹・片岡弘子著 新宿書房
キリムのある部屋
「モラモラ」 久我通世 作・絵 講談社
キリムや ギャッベに使われる図案の例
すべて「愛」とか「勇気」、豊穣、魔除けなどの意味を持つ
モラの布で作ったバッグ
アイヌのししゅうを刺してみたもの
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つくし雑感
春には土筆を沢山摘んで甘辛い佃煮風にして食べるのが常だったが、今年は土筆摘みに出かけることなくその時期が過ぎようとしている。寒かった庭が少し青々としてきたので草取りに出てみたら、一握りくらいのつくしが出ていた。卵とじにはいい加減なので、それで今年の土筆を食べたいいわけにはなった。
* 小さい時から、母親が好きだったのか、当時は娯楽もそれほどないから春休みの一つの行事として必ずお弁当をもって土筆摘みの一日があった。
みんなで「はかま」をとって、母親が煮てくれた。おいしいと思った。その思い出がずっとあって、私のつくしにつながっているのだろう。
* 私の土筆好きを知って、ある年、農家のお友達が屋敷の一か所を草取りをしないで、耕さないでほっておいてくれた。そして、「つくしが出たから、取りに来る?!」と言ってきた。
いってみてびっくり。驚いた! 笑えた!
何と言っていいだろう。「つくしのはたけ」とは。堤に出ている土筆とは別物のように思えた。
とにかく、友達の好意にお礼を言って、土筆を摘んだのだが、摘みながらも、なぜか笑えて仕方がなかった。そして、かごはいっぱいになったのだが、堤の土筆摘みとは違う。その達成感もない。
土筆摘みは、単に土筆を手に入れるというのではなく、もっといろんな要素を持っている。
* 今、近くの堤防に行って土筆を探すと、みずみずしい固い頭のつくしがあまり見つからない。堤防の上を、車がとおる。排気ガスがかかる。このような場所では土筆摘みも楽しくない。私が出かけるのに躊躇するのは、花粉症のせいでもある。
* ただ、これからまだ、土筆のチャンスがある。標高1000メートルの高原には5月の連休頃につくしが出ている。別荘の敷地でささやかな土筆摘みをする。排気ガスもない。私が摘まなければ誰にも摘んでもらえない土筆である。
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雛によせて
またまた飾った人形たち。
ラボっ子たちが賑やかに集ってきたラボルームに、このごろはひな祭りに寄せて、私の作った人形たちを飾ることにしている。木目込み人形やお細工など。
普段は箱にいれられていたり、戸棚にならべられていたり。
年に一度、ひな壇に並んで、家族以外の人たちに眺められ、愛でられて、人形たちの目も輝くのである。
私の人形は、海外のお土産になったり、いろいろなお祝いごとに使われたり、ちょっとしたお愛想につかわれたりする。だから何体も同じ人形を作って追加することもあるし、毎年新しいものも作るようにしている。
中にはもう何年も前に作って毎年飾っているものもある。「これは古いから、今年は(飾るの)やめようか」と思うと、人形の目が「かなしそう」にする。飾られて古い顔などみせず、貫録をもって並んでいる。
百人のラボっ子が集うた部屋に百体以上の人形が、今、輝いて並んでいる。
近所の人や、友達と楽しいお茶の時間が待っている。
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