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桂林山水と桂林人形。中国。油絵。20号。
中国を旅行すると、私は、いかにも水墨画の世界だなあ、と思う。特に桂林に行くと、水墨画そのもの、今まで見た絵画、掛け軸が思い出される。
桂林を、自分の絵にしようと思ったとき、浮かんだのが、この構図であった。
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桂林人形。中国。油絵。4号。
旅行していると、その土地の文化や、風俗を出来るだけ取り込みたいと思う。また、絵にもそれを描きたいと思う。その一つがその土地の人形である。
桂林で民族舞踊を見に行った。それを模した人形を見つけて買ってきた。
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世の中には偶然と言おうか、ご縁と言おうか思わぬことがあるものだ。同姓同名というのは、いくらでもあるといっていいだろうが、私も、その同姓同名の方が一人といわずいらっしゃると思う。その中のお一人の方とのお付き合いを書いてみたい。
今から30年ほど前、東京の知人から電話がかかってきた。「朝日歌壇、入選おめでとう」というのである。「えっ?知りませんよ」というと、「隠さなくていいじゃない、いいことだから」・・・急いで新聞を見ると、なるほど。私が見ても自分みたいだ。その短歌も、私の心を読んだみたいだった。それから、この方の短歌はどんどん磨かれ、定期的に入選なさるのだ。その度に、全国に知人友人のいる私は、必ず2,3人からお祝いのお電話をいただく。なんという恐縮。同姓同名であることを説明して、でも、「思わぬことで、あなたとお話できてよかったわ」と、電話を切るのであった。
その後、私もラボの記事や、国際交流のこと、言葉の記事などで、新聞に名前の出ることもあり、さらに絵画展などをやるようになった頃、その方から電話がかかってきた。一度お会いしたい、というのである。(Bさん、と言わせてもらおう)
お会いすると、私よりややお年を召した方で、家は4キロほど離れているだけ。実に過去も趣味も似ていて、私と同じくらいBさんも間違えられていらっしゃるとのこと。二人で大笑いをしてしまった。
もしここに、私を知っている人と、Bさんを知っている人がいて、この同姓同名の****について話したとする。「その人って、先生やっていた人でしょ」「そうよ」「その人って細かいことやるのが好きよね」「そうそう」「その人、絵も描かれるでしょ」「そうよ」という感じ・・・まだまだ似た状態は、いろいろある。
私の個展の会場へ、どやどやっと、女の人が入ってくる。みんな友達のようだが、少し年齢は上だな。と私は思い、多分・・・・と思っていると、「あれ?あの人、油絵も描いてた?(彼女の絵は水墨画)」ということになるので、私が「これは私ですけれど、その方とは同姓同名で・・・」と説明することになる。お互いに4キロ離れたところで、時々珍事を繰り返しているわけだ。
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パソコン、携帯電話など、私はただ、自分の使える範囲だけで使っている。この世界の進歩の速さにはとてもとてもついていけない。手紙がいいのに、電話で声を聞いた方がいいなあ、メールなんか・・・と思いながら、このキーをたたいたり、[今、メールいれたほうがいいんだ]と、メールをしたりしている自分がいる。パソコンの機能も分からぬまま、たまたま教えてもらって、H.Pの仲間入りをしているのが、申し訳ないくらいだ。私は、このブログ形式の掲示板に書き込むことが苦手で出来ない。どうしても相手にだけ通じる言葉や、感情が出てしまう気がする。第三者の方が読まれたら・・・と思うと、非常に難しくなる。公開ページであるいじょう読んでくださる人のすべてに敬意を持っていたいし、自分の書いた言葉は、自分の責任の中で納まるようにしていたい。
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5歳になった孫の七五三のお祝いをした。
昔の私の七五三や、私の子育て時代の七五三は、11月15日に晴れ着を着て氏神様にお参りをした。
最近は10月の終わり頃からの土、日の神社は、七五三としておまいりするかわいい子達とその家族の姿が見られる。この習慣も土地柄によってずいぶん違うとは思うが、今は商業ベースに乗って昔とは変わったところもあるし、派手にもなり、また楽しくもある。
写真屋に七五三の衣装が、和洋そろえられて、そこで着付けをして、いろんなポーズで、またはお色直しをして写真を撮るのが、最近の七五三の一番大切なことのようだ。写真を撮って、神社には行かない、というのもあるようだ。七五三をやるもやらないも、神社にいくも行かないも、まったく個人の自由で、なんと言うこともないのだが、とにかく、子どもの成長を祝う気持ちが流れていることは確かであろう。
和服などをリホームしていると、和布の端切れがたくさんでる。それらで昔のお細工物、袋物や、造花、飾り物を作る。たまたま、打掛けの模様に青海波のあるところを利用して、[鯛]をつくった。おめでたいときに飾りたい、といって、意外と評判がよい。
七五三にもぴったしだった。昔は、誕生日、お節句、入学、合格、何かとおめでたいときには、「おかしらつき」といって、鯛を買ったものだ。今は高い鯛を焼いても、余り喜ばれない。それよりもおいしい、それぞれの子の好物がある。神社にお参りをしてお祓いをしてもらう。祝詞を聞いて、5歳は、神妙な顔をして、[あれは、むかしのことば?]と聞いた。ゆったりと、昔も今に取り入れて、豊かに育ってほしい。家に帰って、「おかしらつき」で祝った昔の話を聞かせながら、お細工の鯛を飾って、今の七五三お祝い料理を食べた。
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古い着物や羽織をリホームしようと思えば、まず、それを解かねばならぬ。今は、和服を縫うといえば、ほとんどそれを専門職にしている人が縫うことになるだろうが、昔は、ほとんどの人が自分のもの、家族のものは、家庭で仕立てたものだ。私の手にする着物は、私の祖母、母、姉、そして姑が縫ったものだ。私はこの面倒なほどきものをする時間が、少しもいやな時間ではない。それを縫った人の声が聞こえたり、気持ちが分かったり、さまざまな思い出、懐かしさがある。その人、その人の癖も、性格もわかる。裏返して仕立て直したり、いたんだところを工夫して仕立てたり、昔の節約の心、知恵にも感心する。和服は並幅(約36センチ)の布を実に合理的に使って仕立てている。縫い直しには、洗い張りをした。姑が洗い張りをして縫い直すはずで、そのままになってしまった着物生地が出てきた。袖、身頃、おくみ、衿、かけ衿と、とじあわせ、一反の反物になってしまう。大切に着た着物には愛着がある。
このような、明治、大正、昭和初期の帯や着物、ちりめん、富士衣、綸子や絽などを身につけると、その肌触りは格別である。並幅を出来るだけ活用して、単純な、直線裁ち的な作り方で、日常着られる服にしている。私は本格的には洋裁を習っていないので、かえって大胆に自分のセンスで作れるのかと思っている。
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プラハの午後。チェコ。油絵。4号。
プラハの午前、十分に散歩を楽しんだカレル橋の下を午後は、モルダウ川クルーズで通る。のんびりとゆっくりしたクルージング。
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晴れた日のカレル橋。プラハ。チェコ。油絵。4号
朝から観光客がこの橋に来る。あちらでも、こちらでも、ガイドの声が響く。完成当初は、「石の橋」と呼ばれ、後に、創設者カレル4世の名をとって、カレルは橋となった。橋の両端には橋門塔があり、橋の両側には、たくさんの歴史的人物、聖者の像が並ぶ。
私がこの場所を選んで描いたころ、大きい展覧会を見に行った。そこで3枚プラハの絵を見た。一枚はこの橋の一人の聖者の彫刻を大きく描いて塔や建物をシルエット的に描いていた。多くの人が描きたくなるところだ。
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ティーン教会。チェコ。プラハ。油絵。4号。
6月に旅行した中欧の街から、プラハをまず描いた。百塔の街といわれるプラハはやはり、いろんなアングルで描いてみたくなる。
ティーンとは、外国商人が集る場所であった中世の中庭に由来しているという。
この広場は、旧市街広場。まさに観光客が集り、観光の中心であり、拠点である。左の建物は旧市庁舎。前面には、天文時計、仕掛け時計になっていて、上部の窓に、毎正時に、12使徒の像が現れる。それを見るため、広場は人でうまる。
この市庁舎の塔の上から、360度見渡す。ティーン教会の美しい姿を目に焼き付ける。
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何でも買える時代。そしてブティックや専門店は別として、衣料品売り場などをまわれば、どうしてこんなに安いの?と思えるくらいの品物もある。お金、時間、そんなバランスを考えると、「どうしてこれを一生懸命作るの?」と、いいたくなるようなのが、私のリホームだ。
買えば済むもの、今それほど必要でもないけれど・・・・でも、これで何か作れないかな?・・・と、どんどんつくっている。姑の残したもの、母や姉の着物など、今着られる服、今持てるバッグ、ポシェットとしてよみがえる。今、ここにある必要ないものが捨てられなくてよみがえらせるのが私のリホームだ。
姑が亡くなって、子や孫が集った。「おばあちゃんのきものだよ。]といっても、今は誰もそれをもらってきる人はいない。古布のお店はあるけれど・・・・リサイクルショップもあるけれど・・・・誰もほしくないものが高く売れるはずがない。微々たるお金にするには、この必要ないぼろにこめられた思いは大きすぎる。
私は、一周忌の法要をめざして、姑の着物を解き、洗い、そのまま縫っては余りにも能がないし、また貰い手もなかろうと、柄を取り混ぜセンスよく?パッチワークをして、大きいバッグ、かわいいバッグ、エコバッグなどを作った。帯も素敵なポシェットによみがえった。
法要の後、御斎もお開きに近づいた頃、「かばんやさんがきましたよ~。」と座敷の真ん中に、どさっとバッグを置いた。
「おばあちゃんの着物や帯から作ったんだよ。好きなのをもらってちょうだい。」というと、孫の若い子達も、「あ、これ、おばあちゃんが着てたの、・・おぼえている」とか、「これ、おふくろによくにあっていたよな」とか。それぞれの心の中によみがえる熱いものがあった。そしてポシェットは若い女の子たちに。大きなバッグ、小さいバッグそれぞれに各家にもらわれていった。
和尚様は「最高の供養になりましたね。」と。
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