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今この人のことを書きたいと思う。
この人とは、もう、40年くらいの付き合い。まずは、ラボっ子のお母さんとしての付き合いから始まる。ちょっと古い考えの残る農家の奥さん。お舅さん、お姑さんのある中で、3人の子どもを育ててきた。
子どもをラボに入れてくれて、一番下の子は、ラボの高校生留学までさせてくれたが、長男の場合など私もラボテューターとして新米の頃、海外ホームステイの話をすれば、「そんな風に育てると、家をついでくれなくなるといけない。」とか、受け入れホームステイの話をすれば、「外国人なんか怖い」と言われるくらい、びっくりするような言葉が出るのだった。また、子どものしつけや、日常のさまざまなことの良し悪しの考えの基準は、「そんなことをしたら、はずかしいから。」「そんなことをする人はいないから」。そして、「うちの子に出来るかしら。」「うちの子はどうせだめだわ」と、はじめから「だめ宣言」のマイナス思考。勿論、こんな人はいくらでもいる。わがパーティでは、地域性もあってか、こんな人は多かった。ラボパーティは、こんな人の大勢の意識を変え、もっと楽しく、もっと明るく、もっと自由に、夢を持って、と活動の中で語り続けてやってきた。
さて、彼女も、よくよく私と付き合ってくれて、時代の流れもあるけれど、ずいぶん変わったのではなかろうか。
今では子どもは三人とも結婚されて、彼女は、6人の孫のおばあちゃん。日常的にも自由な身になられた。私はなんとなく誘えるときには、展覧会や観劇に誘ったりしていた。いまや、ラボママとテューターと言う関係ではなく、友達として。
この彼女が、2年ほど前、「私、二胡でもやろうかしら。緑内障でねえ・・・」と言う。相変わらず悲観的なマイナス思考の言葉が多い。たまたま、二胡の演奏会と、その先生が新しく教室を開くという情報を耳にして、私は彼女を演奏会に誘った。彼女は喜んでくれた。でもそれ以上に一歩を踏み出す勇気はない。二胡を買うことも、教室に行くことも、決断は出来ない。私は、この彼女の気持ちに付き合うほど、二胡に興味はないし、と思いつつ、やりたいならば、やればいいのに、と思っていると。彼女が言うには「難しそうだね、二胡って。私ね、目が見えなくなったら、こうやって弾いていようかと思って。」と、二胡を弾く形をして見せた。
私は、悪いけど笑ってしまった。なぜ、そんな風に、一番なってほしくないことを、想像してしまうんだろう。「二胡なんか、やめようよ。なるべく、目のことは忘れて過ごそうよ。」と言うようなことをいって、しばらく過ぎた。
そんな時、私は以前から興味を持っていたフラとウクレレに出会うことになった。ここなら、彼女を誘うことも出来る。と思った私は、早速自分のウクレレを買って、そのサークルに加わった。そして、その様子を報告しながら、彼女の反応を待った。やがて、彼女も自分でそのサークルに加わることをきめた。毎週私と会うことになった。フラを踊って、ウクレレを弾いて、時にはハワイアンのライブに行ったり、さらには、そうしたライブで、フラガールとして踊
ったり。・・・彼女の想像しなかったような状態ができていった。彼女は、「このグループなら、私、続くわ。」と言って楽しんでいる。ふと考えると、彼女のマイナスの言葉がなくなった。明るくなった。聞いてみると、緑内障も、進行が止まっている、と言う。フラの会場の、喫茶店のマスターも、「**さん、明るくなったね。顔が変わったもの」と言ってくれる。私は「そうか、やっぱり。よかった!」とひそかに、大変、喜んでいる。
プラス思考で、元気に。明るく。
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アイヌを列島北部の先住民族と認める国会決議が全会一致で採択された。今日は、そのことが、朝日新聞の天声人語に取り上げられた。その文章の中に、アイヌ神謡集の序文や、知里幸恵さんの名前などが出てきて、懐かしく、思い出した。
ラボライブラリーに、アイヌの物語が一つ取り上げられている。「チピヤクカムイ」。
当時、この物語を取り上げて、テーマ活動をしているとき、私自身も、アイヌの物語、アイヌ神謡集、アイヌ関係の書物をたくさん読んだが、パーティでも、その関係の絵本や物語をいろいろ読み聞かせをした。〔ページ一覧:ラボライブラリーの項・チピヤクカムイ参照〕
ラボのテーマ活動では、単に物語を味わい、みんなで身体表現をしながらその場の情景を感じ、よりいきいきとした言葉を習得していく、と言うだけでなく、小さい子も、大きい子も、その取り組んだテーマについての周辺の知識、またはそのテーマについて、何らかの体験をそれぞれにしていくことになる。一人では出来ない体験を、また一人では難しい広がりのある体験をしていくことになる。それが、何年か経って、何かのきっかけで、または、それが必要なときに、必ずよみがえるものだと思う。
私が今日「チピヤクカムイ」を思い出したように、ラボっ子の中には、当時を思い出し「アイヌ」について、やはり、他の人より特別の思いを抱いた人がいるかもしれない。
「銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに」と歌いながら飛ぶカムイであるふくろうは、金持ちの子どもの矢をさけ、貧しい、心優しい子どもの矢を受ける。すべてのもの、自然の中のすべてに神が宿ると考え、神が動物の姿になって自分のところへ来てくださる、と考える。だから、神が自分の矢を選んでくださるようによりよいものを作るように努力をする。自分たちが食べることが出来る食事も、さけも、肉も、そのように自分の前に用意されたものと考えると、自然と「いただきます」「ありがとう」と感謝の気持ちがあらわれるのだろう。
日々の生活の中の矛盾、食生活の中の間違いや無駄、の多い現代、アイヌの精神を改めて学びなおすのも、いいかもしれない。
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ラボの日常活動を後輩テューターに譲り、ラボテューターをやめて、すでに9年もたってしまった。80名余りを引き継いだ後輩パーティは、当時は何かと惑い、大変だったであろうが、私から見れば、何の心配もなく、ラボっ子たちは明るく活動を続けてくれた。毎年国際交流にも次々と参加し、幼児だった子もすでに参加する年になった。どこまで続けられるかなあ、と、やや心配だった高学年の子達も、高校生活動、シニアメイト活動、大学生活動と、ラボ活動を楽しんでいてくれる。引継ぎテューターには、本当に感謝、感謝である。
新年度、新学期と言えば、ラボをやっていればラボっ子募集の時期である。新聞チラシに塾や、同種の募集が入ると、少々心休まらず、ラボパーティへの入会者が気になるのである。そんな募集癖が、すっかりなくなったように思われるこの頃。引継ぎテューターから、いつもより、改まった口調で電話がかかってきた。「先生!先生に改めて、お礼を言わねばと思って・・・・」 「はい、はい、なんでしょう」 「先日、募集チラシをいれたんです。そうしたら、当日来た人が、ラボっ子だったという人、またその友達だったと言う人など、ほとんどラボを知っていると言う人たちで、説明会がとってもやりやすくて、うれしかったです」という。その人たちは勿論、入会したと言う。
以前から、そんなことはよくある事だったが、それは誰だろう、と知りたくなり、聞いてみた。「::さんとか、**さんとか・・・」。 その名前に「ああそうか」と私は懐かしく思った。あの子も結婚したんだ、そして、子どもが、もうラボに入会するほどになったんだ、と、時の流れをつくづくと思った。
ラボは地域に根ざした活動である。外国語教育、国際交流といえども、さらに強調すべきは、総合的な人間教育の上に立って成り立っていると言うことである。私は長年、ラボっ子とともにこの活動に情熱を燃やしたのは、この総合的人間教育、と外国語の習得。 これを、たくさんの物語を媒体に子どもの感性を大切にしながら作り上げていくテーマ活動を通して目指している、と言うラボ活動だからである。この深みと、豊かさ、広がりがなければ、長く続く活動とはなりえない。
地域で続けた活動は、消えてはいない。喫茶店へ行っても、カメラ屋へ行っても、「先生、」「先生」と、今では、ニックネームのようなものだと、思っている。しかし、その根っこのところで、しっかりと、「ラボ」をつかんでいてくれる人がいて、当然のように、わが子のラボへの入会を喜んでくれる。私がラボを続けていて、孫世代が入会してくれる、というより、「引き継いだ若いパーティへ、当然のように入会してくれる」と言うのが、私にとっては、何よりもうれしいことである。ラボテューターのとき、入会してくる子どもの親さんに私は、「明日のテストではない。20年後を見据えた、育て方を。」といってきた。
そのためにも、私には次世代への引継ぎは最大、重要事であった。
「先生のように、私もいい活動にしていかねば・・・とつくづく思いました。」と言う、わが子テューターに、「そうよ。一回、一回のパーティを、おろそかにしないで、一人ひとりを大切に。ラボはどの子にも、必要なもの。どの子をも満足させられる要素を持っているから、たとえその子が、1,2年しか在籍できなかったとしても、その間を満足できるものにしてあげなければ。そういう、一人ひとりへの気持ちが、大きい広がりになっていくのだから。」
われわれ、草創期テューターからすれば、全国的に孫世代のラボパーティになっている。草創期のリーダーの一人がいわれていた言葉に、「悠久のときを思いに入れた教育を目指したい」と言うのがある。単なる英語の勉強ではなく、遠大な夢を持つラボ活動だからこそ、引き継いで、引き継いで、時代にあった活動を広めて生きたいものである。若い、ラボ関係者の皆さん!よろしくお願いいたします。
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ゴールデンウイーク。この祝日続きも、「今日は何の日?」と考えると、天皇誕生日といっていた時代から、みどりの日。そのみどりの日は、5月4日となり、4月29日は「昭和の日」となった。5月5日が「こどもの日」として、国民の祝日になったのは、終戦後。その前は、端午の節句として男の子のお祝いはしたが、祝日ではなかった。
「端午」の意味は、広辞苑を引くと、「端」は「初め」の意。「午」はうま。中国で、月の初めの「午の日」、後に、音が通じると言うので、5月5日とされ、その日に行われる行事と言うことだった。これは、季節の節目に身を清め、邪気をはらうため、菖蒲や蓬を軒にさし粽を食べると言うもの。菖蒲が、「尚武」と音がつうじるというところから、男の子の節句とされた。
鯉のぼりを立てたり、武者人形を飾るようになったのは、江戸時代からで、日本独特のもの。鯉のぼりは、武家出陣のときの、のぼり旗に起こりがあるようで、中国故事では、鯉は黄河の急流を昇ったら、竜になるといわれ、出世魚として、縁起のよいものとされている。
今までに、毎年、何体かの五月人形をお祝いのために作ってきて、それぞれの家で、飾られているかと思うと、うれしい。今年もまた私を喜ばせてくれた。
特にラボの交流で日本に来たオーストラリアの女の子。ホストファミリーとの交流が続き、お互いの結婚式にも出席しあい、今年男の子を出産した。ホストの両親は、日本の風習を伝え、日本の子と同じように鯉にのった人形を送った。オーストラリアに住んではいるが、彼女は中国人。出世魚に乗った人形を、気に入ってくれただろう。
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「ころもがえ」と言う言葉は、好きな言葉だ。季節感があり、寒さから暖かさへ、暑さから涼しさへの、その時々のうれしさがある。私には、幼き日の消えぬ思い出としても、残る言葉だ。
今は、季節の変わり目も、不順が多く、だんだんはっきりしなくなってきているようだ。服の素材も、化学繊維が多く、新しいものが増え多様化してきた。それに、暖房、冷房の設備が整いすぎて、おしゃれや、流行を考えれば、好きなものを着て、すごすことも出来る。はっきりしているのは、制服の夏服、冬服の着替えだけかもしれない。
幼い頃、衣替えの時期、季節の変わり目には、母親が衣服を丁寧に入れ替えていた。特に夏に向かう季節には、衣類の虫がつかないように普段着ていない着物なども全部出して(虫干し)いた。私はその、部屋いっぱいに広がった服や着物の間を、飛び回って遊んだ。母や姉の着物、自分の七五三の着物やお正月くらいに着るような着物を見たり、触ったり、・・・樟脳の臭いも好きだった。
そんなときに、綺麗だなあ、とか、やわらかいなあと思いながら、縮緬、御召、綸子、一越。平絹、羽二重、銘仙、八端。紬、大島つむぎ、結城紬。黄八丈、繻子、緞子。夏物の絽、麻、上布、冬物のセル、サージ、モス、ネル、〔これらは虫がつきやすく、今は化学繊維がこれに取って代わっている〕という織物の名前や、市松、亀甲、絣、矢絣、青海波、輪ちがい、宝尽くし、辻が花、更紗、など紋様の名前、絞り、友禅、ろうけつ、など染物の名前を耳にしていて、こうして思い出すと、懐かしく出てくる。
今、人形を作りながら、平安のお姫様や殿の着物にそれらを思い出しながら、日本古来の織物や柄の文化の豊かさを考える。そして、もっとその頃の衣装を調べ知りたいと思っている。小袖とか、唐衣とか、時代劇を見ていても思うが、十二単衣のお姫様を作っていても、もっと調べなければと思っている。
衣替えにもどると、平安時代は、4月は薄衣袷、5月捻り重、6月、単衣がさね、8月1日から15日は捻りがさね、8月16日から9月8日は生織の衣、9月9日からは生織衣の綿入れ、10月から3月は練り絹の綿入れ、と細かく書いてある。〔この日にちは旧暦だろうが〕
江戸時代は4月1日、10月1日もって、春夏の衣をかえる日としていた。
とにかく、近頃は、暑かったり、子寒かったりするが、春物から初夏へ、さわやかな季節を楽しみ、冬物は片付けよう。片付けながら、もうお払い箱にしようと思うものを整理する。これが私にとっては大変で楽しみでもある。簡単に廃品回収に出すことにはならない。木綿ものは、細かく切ってウエスに。ウール物は、時には、クッションや小物類に。セーターからは、部屋履きなどになる。この頃は、布ぞうりも作ることになる。
さらに、今、毛糸あみのセーターは、解いて糸にとることにした。昔、母親がやっていたように、解いて、かせにとり、湯を通して、ちちじれをのばし、それをまた、玉にとる、と言う面倒なことをやっている。それは、この冬、私は、残り毛糸の整理のため、靴下を編んだ。あたたかいソックスが安く買える昨今、こんな手間のかかるものは、笑われモノかと思いながら、孫や、友人に差し上げると、孫は、「あたたか~い!」と喜んで履くし、友人は「編み方を教えてほしい。子どもの誕生日のプレゼントに編んでやりたい。」と言うことになり、編み物教室をやることになるほどだった。古い毛糸でも、きちんと編んだ靴下は、人にプレゼントも出来るのだと思って、またまた、リホームに精を出すことになったのだ。
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「祝い連獅子」
「大黒天」
3月中飾っていた人形展を終え、一体一体、箱に入れたり、戸棚に飾ったり、定位置に片付けた。そしてまた、新しい人形を作り始めている。飾っている間に、友人や知人が見に来て、気に入った人形を求めて行ってくれた。私の手元を離れる人形のうち、何体かは、海を渡る。趣味で作っている人形が、海を渡って、日本の人形として喜ばれるかと思うとうれしいものである。
宝石業の息子が、インドへ買い付けに行く。その取引先の業者の息子たちが結婚する。インドのそのような業者の結婚式は何日も宴会が続き、大勢の人を招待する。費用も大変なものらしい。そんなところへ、何を持っていこうか。「お袋が作った人形です」と言ってもって行くことになって、もう、何体も、インドに私の手作り人形が飾られている。「大黒天」「石橋」「連獅子」「弁慶」「蹴鞠」など、歌舞伎物や、御殿人形が多い。
ラボの交流のあと、その交際がずっと続き、お互いの結婚にも行き来して、さらに、子どもが生まれ、その家族のところへ、家族で遊びに行くような、親も孫も含めた交流が続いている家族がある。アメリカ、オーストラリア、中国にも、かわいい人形が、贈られていく。
一生懸命作ったものを、手放すのは、いつもちょっと心寂しい気持ちになるが、人〔他人〕のものになって、喜ばれ、大切されるのも、またうれしい。
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宝塚歌劇団・響れおな
平成15年夏、しばらくご無沙汰だった元ラボっ子から、暑中見舞いが届いた。宝塚音楽学校の清楚な制服。「舞台人となるため勉強中です」とあった。
明けて16年4月。音楽学校を上位の成績で卒業し、「響 れおな」として歌劇団にはいった。初公演に「スサノオ」をやると言うので、私も宝塚にいくことになる。そのとき、このHPの始めのほう、16年4月3日の日記で、そのことを書いている。
その後、月組みに配属され、男役として活躍している。私も彼女の公演は全部見るようにしているが、公演ごとに、役ごとに、感じが代わったり、成長が感じられたり、何よりも、公演自体が華やかで綺麗で楽しいものである。
そして今年、やっと5年。この道はまだまだ厳しく、遠いものではあろうけれど、やっと「響れおな・ファンクラブ」発足の運びとなったのである。応援してくださる方があることは、本人の成長、本人の精進する気持ちに、どれほど力になることであろうか!一人でも多くの方が、ファンクラブに名を連ねてくださることを、「親の気持ち」としての元テューターとしては祈るばかりである。
月組公演・「ME & MY GIRL」の初日、3月21日がファンクラブ発足の日となっている。
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第15回 一明会絵画展
2008年3月6日~11日 ロイヤルホール3F〔岐阜市日の出町)
グループ展に4点、展示する。11名で、30余点を展示する。
「街」オランダ・アムステルダム。30号。油絵。
「店先」イタリア・フィレンツェ。20号。油絵
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3年ほど前から、私は、ひな祭りの時期に合わせて、元ラボルームを人形の展示場として皆さんに見てもらっている。今年も雛人形を中心に、能、歌舞伎の人形や、童、などすべて私の手作りばかりを飾っている。3月中、いろんな人との出会いを楽しんでいる。
ひな祭りが盛んになったのは、江戸時代の中期から後期と言われる。本来、初節句を迎える女のこのために、その子の健やかな成長を願って飾るもので、今でも女の子の生まれたおうちでは、おじいちゃんや、おばあちゃんの楽しみの一つと見られるところも多い。
もう一つ、最近では、マイ雛人形と言って、自分のために飾る方もいる。立雛などを、玄関や、部屋の片隅に飾って、季節感とともに楽しむのもいいと言うわけだ。
雪洞。「明かりをつけましょ、ぼんぼりに・・・」と、うたうぼんぼり。昔のように、ろうそくに明かりをつけるわけではないが、いかにも、ぼんぼりと言う音のひびきは、「ほんのり」と明かりが揺らぐ、ほのかな、やわらかい、春の響きがある。雪洞は、当て字であるが、雪のかまくらの中の灯りが、ぼんぼりのほのかな明かりと似ていたからと言われている。
たくさんの人形の中の私のおひなさまは、親王飾り、三人官女との五人飾り、かまぼこの板に乗った十五人飾り、、折り紙の十人飾り、そのほか縮緬細工の雛など毎年新顔が登場する。
ふうせんかづらの種につまようじをさし、頭にして、千代紙の着物を着せた小さい立雛は、ひなずしや、ケーキの上に立ててあげると、ひな祭りの雰囲気を楽しいものにするかと、今皆さんにプレゼントしている。
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まちへでてきた 笛ふきおとこ
まずはにっこり わらってみせる
笛にひそんだ ふしぎなちから
・・・・・・・
ひとふしふいた そのとたんから
ささやくような ひびきがおこり
・・・・
どっとくりだす ねずみの大軍。
フエルトで作ったこんなネズミ、ネズミ、ネズミ。これくらいの数並べると、私の頭の中では、勝手に物語「ハメルンの笛ふき」を思いおこす。
「しっぽつったて ひげふりたてた いくひゃくせんの ねずみのやから」・・・・とてもそんな大軍ではないが、・・・
子年にちなんで、新年から、こんなネズミを百個以上作った。孫や、孫の友達を始めとして、次々プレゼントしていくと、意外と評判がよく、50個、40個、30個と作り足した。
「百」と言う数は、私にとって、喜びや、夢や希望を生み出す数なのだと思う。ラボテューターになって、ラボっ子が、5人(かぜで、2人が休めば、3人でパーティ)もっと元気なパーティにしたいな・・・・10人・・30人(やっとみんなが楽しめるようなテーマ活動が出来るようになって)・・・50人。すごい、と思った。その力は、5人から10人になるときの苦しさよりも楽に、100人をつくりだした。その力、百人の個性のぶつかり合うテーマ活動に向かう創造力とエネルギーは、まさに子どもが自ら学び、自ら成長する喜びの場であったと思う。異年齢の百人が、百以上の物語を軸に、その感性をはじかせて、表現するテーマ活動が、子どもを感動させないわけがない。その子達が元気に育たないわけがない。そんな恵まれたパーティ活動を20年余も続けられたことに今はただ感謝するばかりだ。
その後、なんとなく、私は、なんでも無意識に百を目標にしていることに気がつく。何を作るにしても、百作るとしたら、始めの一個と、百個目とは、作る要領も、かかる時間も、つくり栄えも、違うというもの。今までに、百以上を作って、誰かにあげた、という物は、たくさんある。
今年も、ねずみをつくりながら、いろんな人の笑顔や言葉を思い出し、いい気分でいる。しろ、ピンク、きいろ、紫のネズミを、2,30匹入れた小箱を、ぱっと開けると、その瞬間、だれもが「わー、かわいい」と言う。「お一つどうぞ」と言うと、ニコニコと好きな色をとって、そのピンをどこかにとめる。「おまごさんの**ちゃんにどうぞ」というと、「わたしが、ほしいもの」と言って、結局2個、3個とほしくなる。こんなに手元からなくなるネズミを眺めて、私もにんまりとしながら、とにかく、「わー、かわいい」と言った瞬間が百以上あったと言うことは、いいことじゃないの。とネズミちゃんにkiss!
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