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オーストラリア、ダーウィンから、アデレードまでの大陸縦断鉄道、ザ・ガンに乗って、エアーズロック、ウルルへ行った。朝9時にダーウィンを出発。2人用のキャビンは窓も大きく、ゆったりとしたソファ、よく考えられたシャワーとトイレもついている。次の日の昼までこの列車に乗っていられると思うと、うれしくて、わくわくする。見渡す限り、背の低い木と草、家もなく道もない。右側も左側も地平線。一時間も二時間も、同じ景色と言うか、何もない大陸の真ん中をごとごとと走る。
隣の夫婦は、オーストラリア人。アデレードの娘さんのところまで行くのだと言う。ラウンジへ行くと、大勢が来ていて、コーヒーやコーラを飲みながらおしゃべりをしている。食事の時間になると、アナウンスがあって、みんな食堂車に集まってくる。夫婦か、4人くらいの仲間で来ているのが多いので、4人テーブルを、その度に違う人と相席になって、交流しながらの食事となる。
何時間も変わらない窓の眺めが、不思議と退屈さを感じさせない。と言うよりも、日ごろと違う時間の流れが、なんとも心地よく、心身が緩みもったいないくらい大事な「時」を過ごしている感じだった。
途中、キャサリンで4時間列車は止まり、自由に渓谷のクルージングなどを楽しむ。地平線に沈む夕日を見ながら食事。その間にスタッフがソファを2段ベッドにセットしてくれる。暗くなれば、外は真っ暗。明かりなんて一つも見えない。窓をじっと見つめても、それは鏡となってしまう。早めに心地よい眠りに落ちる。
自然に目が覚めると、日の出の時間だ。地平線から現れる太陽。今日という日が恵みの中に始まる・・・うれしい、感謝のきもち。大自然が与えてくれるゆとりと温かさか。
アリススプリングで列車の旅は終わり、飛行機でエアーズロックへ。
エアーズロック、ウルルは、アボリジニーの聖地。アボリジニー文化に触れたくて選んだ旅だ。エアーズロックのサンライズ、を見る場所へ5時ごろから出かける。その後、エアーズロックの周りをガイドの話を聞きながら散策。エアーズロックには、登らない。
現地へ行く前、ツアー書を読むと、エアーズロック登山、と出ている。「のぼれるのなら、のぼりたいな」と思った。しかし、現地では、「Welcome to Aboriginal land」と歓迎しながら、「Please don’t climb Uluru」と、旅行者に懇願している。「のぼらないでください!」と懇願しているこの気持ち。「のぼらなくていい」と私は思う。
「のぼらなくても」周りを散策するだけで、十分楽しむことが出来、太古からの彼らの営みのほんのわずかかも知れないが、そのなんらかを受け取ることは出来る。旅行社は、ウルルへの登山を売り物にするのをやめ、散策で十分。そしてもっともっと、アボリジニーの文化を伝え、その理解を深めるツアーの組み立てをしてもらいたいものである。私の願いでもある。
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去年の暮れから、小さいお雛様を作り始めた。殿と姫、三人官女、随身二人、五人囃子、仕丁三人、それに蹴鞠の二人を加えた十七人。片手に握れる小さい人形は、襟元、袖口など、容易に壊れてしまう。和紙で補強しながら、根気に平安の美を作り上げていった。寒さの中に咲く紅梅、白梅の小さい花を思わせる十七人の人形、やっと、節分あけには、飾ることが出来た。うれしくて、かわいくて、いつまでも眺めていたい大人のお雛様、私のお雛様である。
ところが、このお雛様は、私に思わぬ忠告を与えてくれたことになる。
人形を作る、縮緬細工を作る、そのうえ1000ピースのジグソーパズル、紅富士を興味に任せて組み合わせ、3週間で完成。そして自分では息抜きのつもりで漢字パズル(本当は目が疲れるはず)をやり・・・・・という日々を続けていながら・・・・一方でオーストラリアへ行くセティングをして・・・と。
ある日、額にシカッと感じる。2,3日して、額の右上に蕁麻疹かと思う膨れが現れ、やがてその隅に、小さいぶつぶつ!。そして次の日は右目に同じシカッ!・・・・・もしかして!と皮膚科に行く。やはり帯状疱疹。
すごく早い時期に気がつき、いまは、いい薬もあるし、1週間でウイルスは消滅し、あとは体の疲労に気をつけることになった。
日ごろ、お医者にはいったことのない私に、このタイミングで、帯状疱疹をのぞかせてくれて、医者に行くことに気がつかせてくれて、海外旅行をする前に体を休めていくように忠告を与えてくれた「私の守護神?」に感謝する。
ダーウィンからザ・ガンに乗りアリススプリングへ。それからウルルへの旅。小梅の雛は、私の健康を守ってくれて、いくつかの目で留守宅を守っていてくれよう。
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一年生の孫が「おばあちゃん、四文字熟語ごっこしよ。」という。「へ~。どうやるの?」というと、なんでもいいから四文字熟語の知っているのを交代にどんどん言っていって、出てこなくなったら負けだという。側からママが、「この子、今これに熱中しているんです。もう毎日うるさくて。わたし、なかなかでてこないから困っちゃう。」という。そして、「おばあちゃんは強いよ。競争してみな。」といった。
「ぼくからはじめるよ。」とかれは得意げにはじめる。「にっしんげっぽ」・・「千客万来」・・「せんてひっしょう」・・「山紫水明」・・「じごうじとく」・・「起承転結」・・「しめんそか」・・・・・・とどんどん続く。何をいったらいいのか、・・次は何を言おうか、・・なかなか出てこないものである。こちらのほうがもう、いやになってしまって降参した。「しめんそかって意味はわかっているの?」といったら、「うん、反対するものばっかで、一人ぼっちっていうこと」と説明した。どうして覚えたのかと思ったら、漫画で説明してある本があり、かれがそれを見つけて買ってくれと頼んだのだと言う。何でも興味を持つときは、楽しく覚えられるものだと思った。
一方、私の漢字遊びは、漢字クイズの雑誌である。もう5年は続いているだろう。ヒントの漢字をもとに、言葉を作り、同じ番号のところに同じ漢字が入る。一枚の問題で100から200の漢字を書くことになるから、手書きがすくなくなったいま、非常に有意義な行為と言うことになる。
また、思わぬ言葉が現れるので、それが、私は楽しくて仕方がない。
最近の、珍しい言葉では、「公孫樹」と言う言葉が出来た。私は知らない言葉なので,辞書を引いた。老木でないと実らず、孫の代に実る樹という意味で、イチョウのことだった。
「露」という字をもとに、「風露草」「山下露」「露台」などが現れた。それぞれ念のため辞書で確かめた。面白いことを知った。「露台」は訓読みでは、「つゆのうてな」という。そうか。「台」を訓で読むときは、日常ではないのだ。
当て字も出てくる。「露西亜」「亜細亜」など。
また、〔 〕{ }{ }{付}と空白があって、三字とも同じ字を当てるとしたらどうなるだろう。これは、「御御御付」「おみおつけ」とするのだ。こんなことを根気にやっているとは、なんとも暇なことか。これも興味があるからこそ出来ること。
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今年も、残りわずかとなった。年の瀬と言うのは、私にとっては、どうしても気ぜわしくいろいろやらねばならないのが、習慣のようである。公的な仕事も持っていない今は、ゆっくりしてもよさそうなものだが・・・・いや、仕事を持っていて、忙しいときにも、やはり年末は毎年同じように過ごしていた。庭の手入れ。寒さに弱い鉢植えを保護し、夏の草取りの後また延びた小さい草をとって、春の芽吹きを待つ土にしておく。夏に伸びた庭木の枝を切り、松などの木の剪定〔これは男の仕事〕。
家の大掃除。窓拭きから始まって、敷居、鴨居、欄間、普段手の届かない桟など、一年に一度しか拭けないようなところを、このときこそはと、拭くようにしている。押入れ、戸棚の整理整頓。これはいつも使っているところは、物も整理できているし、ほこりもたまっていないが、普段動かないもののあるところこそ、この際いらないものを整理しようと、一応物を出して調べて掃除をするのだが、物を減らすのはなかなか難しい。
年末の少し早めから、食事のしたく時間を少し余分に取り、田つくりや、酢の物など、日持ちのするものから順に御節の準備をする。黒豆や金団、甘露煮などは、夜、テレビを見ながら、手作りの細工物など作りながら、コトコトとゆっくりと煮込むようにしている。こんな風に書くと、明治生まれの私の母親の言っていることと、変わらないように思う。そう、台所や暖房、生活の文化は変わっているのだが、伝統文化と心は変わらない。いいものは、引継ぎ、伝えていきたいと思う。
スーパーには、御節が並ぶ。ホテルや料亭の御節のパンフレットも届く。それらは、私にとっては、参考でしかない。「う~ん、これおいしそう」「そうだ、これをつくろう!」。新聞や、テレビではいっぱい参考になる料理を紹介してくれる。いくらでも新しい工夫に富んだ料理、御節ができると言うものだ。
「二人でもつくるの?」と、聞く人がいる。作りますとも。食べることほど大切なことはない。心身の健康の源ではないか。まずは、夫が食べてくれる。子ども孫たち、親戚も食べに来る。たまには、近所にもおすそ分け。おいしい食、楽しい食、さらに今は、安全な食はもっとも大切なことと言えよう。
床の間には正月用の掛け軸、若松に南天、水仙など、いけばなの用意。干支や花餅飾りなど〔これらもみんな手作り〕、新年のグッズを飾る準備、大晦日、年越しを家族みんなでゆっくり出来るよう、早め早めに余裕を持って出来る悠々自適の毎日がうれしい。
風水や、占い学など、別に勉強したわけではないが、時々、ふっと、風水の本をのぞき読むことがある。そうしたとき、「アレ、私このようにやっているじゃない」と、いい運気がくるようなことを、日常的にしているな、と思うことがある。私流に言わせれば、福を招くこと、運気をつよくすること、健康を保つこと、など、人の幸せは、日常の生活態度だと思う。
気持ちよく整えた状態で、おいしいものを食べ、「おめでとう。」「おめでとう」と明るく福を呼び込み、いい年を迎えたい。
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日常買い物に行くスーパーも、レジ袋を有料にした。いままでの習慣で、うっかり袋を持たずに、買い物に行ってしまう。ハンドバックにも、車にも、マイバックを入れておいたほうがよい。こんなとき、私は少し前から、袋にいい布を見つけると、簡単な、出来るだけかさばらない袋をたくさん縫っていた。折に触れ、友達や近所の人に差し上げて、喜んでもらっていた。
一方、これはどうしようと、思うものがあった。それは、私の姑も母親も、姉も縫い物が好きな人だったので、絹糸や刺繍糸が、たくさん残っていた。しかも年が経って、絹糸などは特に弱ってしまっていた。とても使い物にはならない。と言って、そのまま捨ててしまうのも・・・と思っていたが、ふと思いつき、一本では簡単に切れてしまう糸も、8本、10本と合わせると切れない。そこで、10本くらいそろえて、鉤針編みで編み始めた。何にしようか。・・・簡単なマフラーにした。絹糸で編んだやわらかいマフラーは意外と暖かく肌触りもよい。これはよい、と全部の糸をこうして処分しようと思った。
不思議なこと。こうして編んでいる最中に、以前お世話になった人の家を訪ねた。その家は、10年ほど前まで、洋品店をやっていた。私が行くと、「相談しようと思っていたことがあるのよ」と言って、商売をしていた頃の絹糸を使ってくれないかと言うのである。それこそ、糸の引き出し一本を全部だから、各色、グラデーションでそろっている。私は、なんだか、変な気持ちになったが、それをもらってきた。
すごい数の糸のこま。赤系統、きいろ、みどり、ブルー系統・・・と分けて、どんどん編んだ。不思議なこと。糸たちが、魂があるようで・・・「あの人のところへ行けば、役に立てるかもしれないぞ」と、糸たちが、私のところへやってきたんだ。と思って・・・・・。
編んだマフラーのブルー系のを、まずは、糸をもらった人のうちへ持っていった。「あんたに相談してよかったわ、捨てることも出来なくてねえ。これはいいわ。」といって、80才になるその女性は、喜んで首に巻いた。何枚できただろう。10枚以上ある。もう「この色が好き。」「私、これがすき」といって、何枚かは、もらわれていった。これも、物を活かすこと。エコロジーかと。
朝日新聞にエコかるたが載った、面白い。こうして、みんなが少しでも考えたら、いいのだろうか。こんなになってしまったわれわれの生活を変えていくのは、容易なことではないが、何とかしなければならないのは、みんなが分かっていることなのだ。
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源氏物語さまざま
今朝の朝日新聞の文化面を見て、なるほど・・・まさに読書の秋? 源氏物語千年紀、「源氏物語まつり」だなあ、と思った。
先日、宝塚の大劇場へ行った。いま、月組〔元ラボっこ、響れおながいる〕が「夢の浮橋」の公演をやっているから。
たまたま、私は、以前から読みたいと思っていた、瀬戸内寂聴さんの源氏物語を読んでいるところだったので、相当スピード・アップして、最後の章、「夢浮橋」まで読んで出かけた。 幕が開いた。 「類まれなる美貌と才能を兼ね備え、世の栄華を極めた光源氏が、この世を去ってから幾年・・・・宮中では、今上帝の第三王子・匂宮と光源氏の末子・薫〔実は柏木と女三の宮の不義の子〕が稀代の貴公子として評判になっていた。」・・・と言う演出の出だしで始まるのだが、私は、寂聴さんの口調が頭に残りすぎていて、・・・・これは、宝塚なんだから・・・と自分の頭に言い聞かせて・・・・宝塚歌劇を楽しむのに、少々時間がかかったのだった。
私は今度初めて、源氏物語全巻を通して休まず(時間をあけず)読んだ。義務でもなく、課題でもなくとにかく楽しんで読めた。寂聴さんのは、現代小説の感覚で気楽に読めるからだけれども、この年になって、いまこんなときに〔毎日事故だ、殺人だと殺伐とした時期)読むのもいいかもしれない。
二三日前、83歳の上野栄子さんが、18年かけて、源氏物語を訳し、今月刊行されたという。「作家の先生方の口語訳と違って、自分の思いはこめず、紫さんの文章を素直に訳しました。」という。寂聴さんは、楽しませてくれて、私は共鳴したが、今度は、本当に千年の昔のすごい人、紫式部に近づきたいな、その文章を素朴に味わいたいなとも思う。
もう一つ別の世界。私の作った人形に源氏物語から名をとったものがある。単純に楽しむだけ。
葵の上
明石の上
夢浮橋
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昨日は、宝塚舞踊会を見に行った。これは、舞台やレビューで忙しい中、時間を見つけて日本舞踊の研鑽をしている人たちの年に一度の発表会といえるものだ。21名の出演で、響れおなの初めての舞踊会なので見に行った。日本の古典芸能が身近な教養や娯楽ではなくなった今、心してそれに触れる努力をしないと、なかなか本物に出会うことが出来なくなった。
夕方から始まった会は、たっぷり4時間、久しぶりに邦楽の生演奏に浸って、ゆったりとした、言葉に表せない豊かな幸せな気分になってしまった。長唄、常磐津、清元、地歌とその演目ごとに、舞台の雰囲気も変わり、私は舞いを見るとか、楽しむというより謡と三味線の音色に感じ入ってしまった。今まで、これほど三味線に感じ入ったことはなかったが、なぜだろうと、不思議に思っている。今の日常は、ウクレレが身近にあり、コードを覚えてジャカジャカやっている。三味線の澄んだ音色、華やかに、悲しく、または、はげしくひびく・・・これは日本人の深層にあるものを揺さぶるものを持つ・・・・古典芸能の持つ力は、何か日本人の血に合うものがあるのだろうか。私の年齢のせいであろうか。 それにしても、宝塚なので、若い人も大勢来ていた。若い人がこうして古典芸能に触れる機会があることはいいことだと思った。
因みに 演目は、長唄「高砂丹前」〔兵庫県の高砂にある松にまつわる、おうなと翁の伝説を舞踊化したおめでたいもの、若手の男役の丹前振り〕。
常磐津「千代の友鶴」〔広尾八景とも言われ、豊後の景色を歌ったもの〕。
長唄「末広がり」〔大名と太郎冠者、狂言仕立てのたのしいもの〕。
道行もの、清元「落人」、地歌「ねずみの道行」、常磐津「新口村」。日本の文化の中には死を美化することによって現世が昇華されると見たのか、心中もの、道行ものがつくられている。「落人」は、まだ、生の希望が残っているけれど、「新口村」はまさに死に向かう道行である。「ねずみの道行き」は洒落。いたちに追われたり、食べ物を探したら、猫いらずが入っていたりで、この世をはかなみ、水がめに身を投げようとする、ハツカネズミの子の助を、慰めていた傾城のはつか。ところが、大きな猫を見て「あれあれこわや」と、二匹で水がめに身を投げる、というもの。
地歌「傾城」引き抜き、長唄「石橋」(華麗な江戸吉原の花魁から、勇壮な獅子にかわり、踊り別けろ)
清元「保名」〔義太夫劇、蘆屋道満大内鑑のなかで、安部保名が、死んだ許婚のために狂乱する姿を独立させて舞踊化したもの〕。
清元「浜行平」〔都から流された、行平の都を思う望郷の念を舞うもの〕。など。
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こどもたちと、テーマ活動にとりくみはじめるとき、または、いろいろと物語について話しているとき、よく、「ああ、その話、知っている!」とか、「その話、聞いたことあるよ」または「その本、読んだ」などと言う子がいる。勿論、これが悪いのではない。私は、こんなとき何回も思ったことがある。普通はこれでいい、ここまでで、終わりかもしれない。しかしラボはここからが始まりだ、と。どういう話かと、知っているだけではない。物語を楽しむには、言葉、言葉の表現に興味を持ち、綺麗な表現、繊細な表現から、物語を奥深くイメージしてほしい、と。
なよたけのかぐやひめ、国生み、かえるときんのまり、ロミオとジュリエットなど、私の心に深く残るいい言葉の表現として思い出される物語がたくさんある。だから何度でも聞きたくなり、読みたくなる。
こんなことを思いながら、今、瀬戸内寂聴訳で、「源氏物語」を読み始めた。私が始めて源氏物語を手にしたのは、谷崎潤一郎のものだったと思う。昔の話。それから、折に触れ、拾い読みをしてきたが、寂聴さんのでは、十巻通して読もうと思う。とてもいい。私の好きなトーンで、表現が細やか、言葉が綺麗繊細、堅苦しくなく、古典と思わず楽しんでいる。
こんなとき、偶然、宝塚の 響れおな から、次の公演の連絡が来た。つぎは、「夢の浮橋」(11月7日から12月11日)源氏物語最終章、宇治十帖を元にした舞台だという。千年の昔を今に、日本文学を楽しむことができる。
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この夏は、姑が亡くなって満6年。七回忌の法事をつとめた。姑の息子は6人。その息子の家族が、夫婦、その子ども、孫とやってくる。いわゆる長男の嫁である私は、それだけを統括?しなければならないから、ずいぶん大変だとも言える。
さて、法事とは、普通ではなかなか集れない親戚がある程度無理をしてでも集ろうとするから、私はそれだけでも意義があると思う。そうして故人をしのび、それぞれの幸せに感謝できたら、何よりであろう。
もう一つ、私は、法事にみんなへのプレゼントとして用意するものがある。三回忌の時には、姑の残していった着物、どこへ持っていっても二束三文、誰にも、貰い手のない着物で、バックをつくった。これなら若い孫も喜んでもらってくれた。
今年は、何回も処分しようと思いながら、押入れの棚の上にあった蚊帳を、「布ぞうり」としてよみがえらせた。緑色の麻のぞうりは、実にいい肌ざわり。
蚊帳のぞうりは、6人の息子優先だ。「ああ~」としばらくは、声もなく、緑のぞうりを手にとって、なでまわす白髪頭の息子たち。蚊帳の中で、暴れたり、おふくろに叱られたり、あれやこれやが、思い浮かぶことだろう。故人をしのぶ、折に触れ、故人を思い出すことが、私は何よりの供養だと思う。
他のみんなにも、タオル、浴衣、Tシャツ、ネクタイなどで作ったぞうりを用意した。湯上りの足元が気持ちいい。
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私のところに、「ミンダナオの風」という季刊誌〔執筆編集・松居友。発行・ミンダナオ子ども図書館)と言うのが、送られてくる。その最新号をみて、「おっ!」と驚き、と同時に、「友さん、おめでとう!よかったですね。」と言いたくなって、それが、このH.Pになった。それは、松居友さんが、ミンダナオに行って、この活動を始めてから、もう何年だろう。「ミンダナオ子ども図書館〕として法人登録を取って5周年と言うから、ずいぶんの苦労の年月があったと思う。その活動報告の中に、「松居陽」と言う名前と、立派な若者の写真を見たのだ。私には、「あの子が、こんなに大きくなって、お父さんの仕事を一緒にするというのだ!」と言う、感激しかなかった。
丁度、ラボライブラリーの「一寸法師」が発刊される前、テューター組織の中で、日本の物語、昔話、おとぎ話、そして、アイヌの物語、沖縄の物語などを研究していた。その前から、松居友さんには、中部でも、講演をお願いしたりしていて、そのご縁で、丁度北海道に移り住まれた松居さんにお世話になって、1992年ごろから3年ほど、毎年北海道を訪れ、二風谷へいったり、ユーカラにふれたり、アイヌの物語の周辺に興味を深めたのだった。中部テューターが10人くらいで訪れたときも、快く車で案内をしてくださった。千歳のご自宅を訪れたとき、奥さんのスーザンさんが、3人目のお子さんを、日本式の、おんぶ紐でおんぶをして、私たちにお茶などを出してくださったことが忘れられない。そのとき、多分小学校1年生くらいだったであろう長男の陽君が、今、写真の若者であるのだ。
松居さんの絵本、も・と・い・つ・ま、の名、(なまえをさかさにして)で出だされたものがある。「昔話の死と誕生」や、「火の神の懐にて」〔アイヌのコスモロジー〕など、よく読んで、参考にしたものだった。スーザンさんは、作曲、絵本、児童書〔森のともだち・冬ものがたり・など〕と活躍されていたが、私は特に彼女の随筆、「あした天気になあれ」を大切にしていた。
ラボ組織には、顔を出されなくなっても、私のところには、「北の森通信」〔松居友編集の一般誌〕と言うのが送られてきていた。その活動がだんだん活発になり、幸せな家庭生活が続いているものと思っていたが・・・・・・・・・・
突然〔私には、突然だった〕ミンダナオから「ミンダナオ子ども図書館」の便りが来た。苦労があって、現在があるのだろうが、ずいぶん大きな夢で、これからの努力がまだまだ大変だと思う。多くの人の理解と協力が必要だと思う。ヤフーで「ミンダナオ子ども図書館」を検索すれば、いろいろ知ることが出来る。私は里親制度くらいしか応援できないが、少しでも、理解者が増えたらと、願っている。
ぜひお願いいたします。
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