なよたけのかぐやひめーその2-「死なれて・死なせて」 |
04月01日 (木) |
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先日の「なよたけのかぐやひめ」の項に、がのさんから書き込みを頂いたので、もう一度書きます。
私は秦さんの「なよたけのかぐやひめ」には、文学を読む姿勢というか、その心を教えてもらったように思う。何が何でもすべての作品をそのように重く受け止めねばならぬというのではないが、作者が魂をこめて書いた作品を、より共感し、より近いところで受け止められれば、それだけ、心に残るものも多く、その人自身の糧ともなるのだと思う。
「死なれて・死なせて」秦恒平・弘文堂ーーにおいて、秦氏は、「なよたけのかぐやひめ」は、親が、真実いとおしい幼いものに「死なれて」しまう物語。天女の昇天などという美化とは、およそかけ離れた切なさを感じると、書いておられる。かぐや姫として伝わる、只のおとぎ話ではなく、完成された文芸作品だといいつつも、特に「死なれる」ものの胸をかきむしるほどの焦慮、苦しみの想いを、ひとつひとつの言葉にのせて、この「なよたけのかぐやひめ」を書かれたのだと思う。
「死なれて・死なせて」の中で、その想いを、秦氏の生い立ち、境遇、体験を根こそぎ掘り起こし、その実感を伝えようとされている。更に多くの文学作品、古事記、平家物語、源氏物語などにも関わって書いておられる。また、漱石の「こころ」については、特に深く書かれている。余分だけれども、「こころ」は、秦氏の戯曲があるから。
そしてこの避けられないものを、乗り越えていかねばならぬ。この愛があるゆえの悲しさ、それを乗り越えて「生きる」をテーマに書いておられる。
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三年という月日がたち、国の帝となよたけのかぐやひめとは、文をかわし、歌を詠みかわして、ほのかな愛とたがいの敬意とを伝え合っていた。
そしてその年の春はじめから、ともすると、かぐやひめは月の出美しく晴れやかな宵にかぎり、かえって、心しおれた様子をおきなやうばに見せていた。
ーーーどうしたことか、あんな姫を見たことがない・・・
ーーーお月さまの顔を、そんなにごらんになるもので、ない。縁起がわるいといいますよと、何度もいうてみるのですが・・・。
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美しい言葉。声に出していってみたい言葉なのだ。またそうしなければ、本当に美しいと感じられない。知識として知るものでなく、自分の物として感じるものだから。
(「死なれて・死なせて」の本も上手に伝えることはできません。)
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Re:なよたけのかぐやひめーその2-「死なれて・死なせて」(04月01日)
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返事を書く |
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がのさん (2004年04月02日 09時25分)
ありがとうございました。そうそう,あとに残されるものの思い,「こころ」
にふれた部分など,思いだしました。本箱のどこかにあるはずですので,(乱
雑をきわめていますのでたいへんなのですが)探して読みなおしてみます。
「なよたけのかぐやひめ」では,たとえば,読点の打ち方ひとつをとっても,
ふつう読む文章とはだいぶ異質ですよね。しかし,声にしてみると,それがじ
つに自然。「、」ひとつにこだわる秦さんの思い入れをうかがえます。
お手間をとらせました。
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