旅順攻撃の司令官として、59000人の死傷者を出し、
例えば司馬遼太郎によって、無能の指揮官と言われた乃木希典
福田和也による評伝
嘉永2年に生まれる、ペリー来航の4年前である
明治維新は20歳の時
長州戦争には参加しているが戊辰戦争には参加していない
そのため戊辰戦争帰りのものたちのつくる結束からは孤立していた
だが暗殺された大村益次郎の陸軍における後継者である御堀耕助は従兄弟であり、新政府の軍人になることとなる
引きがあったためであろう、明治4年陸軍少佐に任ぜられる、23歳と異例の抜擢である
前原一誠の萩の乱にあって政府軍として鎮圧にあたった
だが、弟正誼は反乱軍にあって戦死、
師である玉木文之進は息子や弟子たちが反乱に加担したことの責任を取って割腹自殺
西南戦争では西郷軍との闘いで軍旗を失った
半狂乱になった乃木は奮戦するが負傷、恥をそそごうとしたがかえって大きな恥辱を受けたと嘆く
西南戦争後は豪遊の日々
薩摩の娘との結婚
豪遊はやまず
ドイツ留学、帰国後放蕩生活にピリオド、その対極になった
徳義の固まりとなる
近代国家における軍隊では徴兵された兵士を死地におくることになる
このことは徳によって国民の信を得る、つまり徳義で支えるしかないとただ一人決意し、生涯をかけて実行したのが乃木希典であると福田和也は評価している
明治天皇も同じ思いを持ったからこそ乃木を愛した
「乃木は次第に、一つの詩のようなものになった。美しいが、人工的で、非現実的なもの。しかし、彼は紛れもない、生身の人間だった。」
「乃木が清廉潔白に見られようと努力したことにむしろ感ずるところがある。それは作為であり、演出だ。だが、それが自ずからのものではなく、努めたものであるからこそ畏敬を覚える」
とまで福田和也は書いている
さらに「日本には(児玉源太郎のような)有能な人はたくさんいる。ただ、いないのは乃木のような人物だ。乃木がいないからこそわが国はかくも長い低迷を余儀なくされているのではないか。」と
乃木希典への見方が大きく変わりました
また福田和也が乃木希典を評価する理由もよくわかりました
それは近代国家が徳によって支えられない、今の日本に住んでいるからこそ、乃木希典を求めたいということです
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