|
|
|
|
|
[一覧] << 前の日記 |
次の日記 >>
|
民藝公演『峯の雪』を観る 2010/07/02の日記 |
07月02日 (金) |
|
三好十郎1902-1958が戦時中に書いた戯曲である
初めてと言ってよい公演だそうだ
昭和19年9月に脱稿し、刷り上がったが、米軍の爆撃により焼失、
残っていた朱筆入りのゲラにより三好氏没後に出版された
情報局そして警視庁の検閲をパスしなければ、出版も上演もできなかった時代に書かれている
「自分の仕事に忠実な人間、土をかわいがる農民、二枚舌を使わぬ人」など
生涯にわたって実直な庶民を描き続けた作家三好十郎が、
どのように戦争を受け止め、どのように戦時下の庶民を描いたのか
民藝の作り上げた舞台は、とてもまじめな、丁寧、重厚なつくりで
いつの時代にもかわらぬ庶民の姿を描き出し、大変感銘の深いものであった
そして実直な庶民がとまどいながらも、戦争に参加してゆく姿は
悲しくもあり、哀切なものでもあった
作品の舞台は昭和16年秋、九州の老陶工花巻治平の家
自由には焼き物を作れず、電信柱につける碍子をつくるよう会社から言われて、
もう焼かぬとろくろを閉じ、野菜を作っている父
弟子の治六が碍子を作って家を支えている
長女弓子との結婚は、次女みきの出奔の事情もあって進んでいない
3年にわたって、家を出たまま、行方が分からなかったみきが家にかえってくる
もしやからゆきさんではなかったかと疑い、いぶかる村人や家の者たち
劇中でみきが峯の雪(さざんか)を床の間に生ける場面がある
ちゃんとできていることを父が喜ぶ
家で父から習ったお花を、職場や入院中の兵士を見舞う病院で役立て
野の花を瓶に生けて喜ばれているという
外地にあっていま使命感に燃えた女性である
からゆきさんと思われても腹も立たない
苦労している兵隊さんを慰められるなら、からゆきさんであってもいいとまで言う
佐世保に出征する近くの家の海軍軍人、30歳の中佐、
かっては茶道の弟子が茶をいただきたいと立ち寄る
床の間に峯の雪が飾られている
戦争で使う無線機器の研究に使うものであるらしい複雑な碍子の制作を依頼にきた男と次女は張家口で知り合いであった
兵隊であった彼は胸を病み、内地に戻って、ろっ骨を切り、研究室に戻ったと言う
みきが蒙古につながる張家口の特務機関でタイピストとして働いていたこと
研修を含んだ休暇で戻ったことがわかる
そして東京での無線の講習後またそこへ戻ってゆくという
ろくろを閉じ、野菜を作っている父がしだいに考えを変えてゆく
はじめは拒んでいた父がその複雑な碍子の制作を引受け、作りはじめるところで劇が終わる
父の戦争協力にもかかわらず日本は敗れたことを我々は知っている
茶を所望した軍人はハワイ奇襲に参加し、その後太平洋戦争の中で戦死したであろう
同居している弟子の治六は徴兵され、戦死しなかったであろうか
張家口は日本軍がアヘン栽培をし、奉天、北京、上海で中国人に売って、
戦費を作ったところだと言う
その額は昭和20年までに戦艦大和3隻分に相当したという
そこへ戻った次女はおそらくそのことは知らないまま
激務に頑張ったことであろう
帰って来ることができたのであろうか
|
|
|
<< 前の日記 |
次の日記 >>
|
|
|
|