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スサノオ発表レポート=パート2= |
02月02日 (火) |
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合同Pとそれぞれのグループの活動と少しづづ、重ね塗りしていくように、ひとつづつの場面、疑問、イメージが段々とぼんやりしていたものが、はっきりしてくるにつれて、ひとりづつのイメージが互いに違うことがわかったり、または、重なりあったりしてきた。
『スサノオ』の初めのシーンで、子供たちが、
「♪舞え、舞えかたつむり~♪」
と歌いながら遊んでいると、そこへすごい勢いのつむじ風が吹いてくる。
かたつむりの歌とつむじ風 いじめっこの仙吉、
つむじ風のことをスサノオが来た と言うこども
そんな場面を、それぞれがどう感じたかの話し合いのくだり。
◆初めに誰かが、カタツムリを見つけて、自然と他の子が集まって来る感じ。
◆カタツムリを手にすると、可愛いと思う気持ちと、壊したくなる残酷な気持ちと、ちょっと怖い気持ちが起こる。
◆私は、絶対に、手に取って捕まえないな、、、菊乃もきっと、そういう女の子だと思う。
◆仙吉なら捕まえてるよ、きっと。そして、怖がっている女の子をからかう。
◆仙吉は、いじめっ子の部分と、優しさの両方持っている。
あとで出てくるスサノオも同じ(少なくともおばあちゃんの言葉から、そう感じる)
◆誰かがカタツムリを見つけて、カタツムリの歌を、誰からともなく歌い始める、そして子供たちが集まってくる って感じ。
◆荒荒しい、うづまくすごい勢いの風は
ひとつだけでなく、あちこちにうづまいていて、ひとつに集まってくる。それは、霜月祭りに、いろいろな神様が集まったということではないの?、「スサノオ」がござった(来た)明日は霜月祭りだからな と、一人の子が言っているでしょう。
◆霜月祭りは、「千と千尋」のモデルにもなっているらしい。神様達がお風呂に入りに来るんだよね~あの映画では
(浜松から車で2時間ほどの遠山郷のパンフを参考にしました)
◆いろいろな神様の中でも、スサノオは、なぜ荒荒しい神様なの?普通、神様は、完全無欠な存在であるはずなのに、スサノオは違うよね~
◆この物語の最後には、困難を乗り越え一人前の男として成長していくけど。
◆日本の神話、ギリシャ神話では、神様も人間っぽく、失敗したり、罰をうけたり、反省したり 嫉妬したりしているよね~
●余談:(子供たちは、「♪舞え舞えと唱えている子供の遊び歌が、
親鸞の教えを綴った 『歎異抄』 の中の一節であることは、知る由もないが、親鸞の教えの中の、
「人間とは因縁によって悪も善も行う者である」
と歌のイメージが重なる。
「上手く舞わなければ、馬や牛に踏み割らせるぞ~!!
でも、上手に舞えば、花の園であそばせてやるよ~!」
実に残酷さと、優しさの両面、人間ならばが誰でも持ち合わせているということなのか、、、
このイメージと これから始まる 「スサノオ」の物語の予兆または序章として、ラボライブラリーの作者が意図していたのでは?と大人は推測できるが、予備知識などなんらなく、感性のみ、直観のみで物語の深みに入っていく子供たちの話合いを聞きながら、心からその鋭さに驚かされるのである。
始まりのピアノの低い音楽=つむじ風の表現としては、
はじめ、わ~と一人づつがうづまきながら、勢いよくスパイラルに集まってきて、ぶつかりあいながら、ぱあっと飛び散っていく感じの動き
になっていった。
ひとりひとり、抱いているイメージは、微妙に違っているのかもしれないが、あえて、絶対的な答えを押し付けない。イメージに絶対という正解はないし、強制はできないのである。
つむじ風を「スサノオ」として重ねていた子もいるだろうし、
あっちこっちから霜月祭りに集まってきた神様と思っていた子もいただろうし、これから現れるヤマタノオロチの予兆としていた子もいただろうし、巨大カタツムリの渦巻きと思っていた子もいた、得体のしれない自然の怖さを漠然と感じていた子もいるだろう、、、
そんなひとりづつの感じ方を出し合うと、その違いに驚いたり、刺激されあいながら、そして、その違いを包括していくような動きが突然と出来てくる。
微妙な心が通じ合い、かたまりとなっていくように表現が生まれてくるのである。
こんな風に、ピアノの音ひとつひとつ、異なる言語(日本語、英語)のセリフ一つ一つについて、一人づつの感じ方、とらえ方を寄せ集め、寄り合わせていくのである。実際の時間を離れ、深い物語の世界に入り込んでいく感じである。何度も何度も動きを重ね、ひとりひとりがぴったりくる表現にしていく。
例えば、仙吉がおばあさんと囲炉裏を囲みながら、「スサノオ」とは、どんな神様なのか聞き、おばあさんが、話してあげるという場面。
She began to talk bit by bit.
おばあさんは、ぽつりぽつりと話し始めた。
というくだりのナレーションで、
◆<ぽつりぽつり> ってどういう感じ?
幼児の質問に、みんなが真剣に考えた。
◆囲炉裏の上に登っていく煙が、ふわ~とおばあさんが語る「スサノオ」の世界へ 連れて行ってくれる って感じ。
◆そうそう、はじめは、白黒だけど、少しづつ、鮮明になってくる
◆囲炉裏の火と煙=時間の経過を表し、スサノオの時代へとワープしていく
◆囲炉裏の煙なんだけど、逆回しに、戻っていく感じ
こんな話し合いを聞きながら、幼児も、ふんふんと聞いている。
動くと一緒に、ずっと体が柔らかい分、本当に煙のように、くすぶった炭火から、煙のように、逆のぼるように、物語の世界へ誘うように 自由に動き始めるのである。
今回、この「スサノオ」のテーマを選ぶ際に、心配だった幼児たちだが、実際、取り組み始めると、大きい子も幼児も関係なく、わかり、楽しみ、動き、分かち合えたことは、本当に驚きだった。
毎回のラボに集まって来る幼稚園児が、すぐに、
「スサノオ」やろう!! と一斉に口にし、CDをかけて、かけてとせがむのである。
少し長いお話なので、途中からにしようか、と提案しても、結局、はじめから最後までちゃんと楽しめるのである。
これだけ、楽しめる力を養えたのは、2,3歳からの、絵本の読みきかせ、ごっこ遊び(イメージで遊ぶ)、 物語を理解し、疑似体験を楽しむ土壌を育ててきた事に他ならないと、今では確信している。
ラボテューターを初め20年という歳月が経ち、初めての2、3歳児が、高校生リーダーに育ってきた彼らが、ラボっ子たちの成長の証しとなっているのである。
人間のみに与えられた能力=想像力、発想力、表現力、理解力、つまりは、イメージし表現し、楽しみ、分かち合う力が、たとえ、幼児でも、その集団に入れば互いに刺激し合い、その年齢を飛び越え、発揮するのである。
「スサノオ」をレポートをシンプルにまとめたいと思いつつ、どのセリフ、どの場面をとっても、子供たちのこだわりの思いが詰まっていて書ききれない。自分なりにノートをとり、大切な発言はメモやら図やらを書き入れてはいるが、それでも、拾いきるのは至難の業なのである。
どんな小さな声、どんな僅かな表情、動作も漏らさないよう、よ~く、子供たちに目を光らせ、心を耳を澄ます。
ラボが終わった後、お風呂の中で、あの子のつぶやきの意味は???、
「でもね、、、スサノオは、あれだけ悪いことをしたのに、、、いいのかな、、」
聞きなおしたら、黙ってしまった。本当は何を言いたかったのだろう、、
毎日、子供のつぶやきを思い返し、反芻する。
でも、子供たちのつぶやきのスピード、温度、発する光の強さ、ハッと湧きおこった時の心の色、互いにシナプスがつながり合うようにみんながシンクロナイズしていく感じ、ノートには書き込みきれないものだ。
色々、工夫して自分なりに書きとめてはみるものの、、、
一部、掲載してみるが、所詮、私の目と耳というフィルターでとらえたものしか、書きとめる事はできないのである。
今も、発表当日のビデオを見返すが、気づかなかった子供の動きや、表情がたくさんある。
きっと、子供たちの中でも、何カ月もたって、あ~、あの事って、、、
と後から気づいたり、わかったりすることもたくさんあるだろう。
そこが、身体的な体験で学んでいくテーマ活動の醍醐味ともいえる。
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