ミタクエオヤシン(すべてのいのちはつながっている) |
08月19日 (水) |
|
映画「ブタがいた教室」をDVDで観た。
子どもたちに観せたかった。
ある小学校で6年生がブタを飼育し、最後にはそれを食べるというのだ。
いのちを考える授業の一環として。
その実践記録の映画化。
高校のとき、クラスメイトのお母さんが日本でこの実践の第一人者の先生だった。
それ以来、自分の中にもずっと残っていたテーマだ。
その実践を直に聞いて心を揺さぶられていた私は、
大学時代に活動していたキャンプで「ニワトリをさばいて食べる」企画を出したものの、
幻に終わったことがある。
府立の野外活動施設で行われる小中学生を対象とした5泊6日の公的な教育キャンプ。
私としてはかなり本気で、
ニワトリのさばき方を習いに、当時の電話帳で鶏肉屋さんすべてに電話した。
たった1軒受け入れてくださって練習したのだけれど。
(でも正確には息の根は止められ、毛もむしりとられたあとのトリさんだった。)
キャンプディレクターはうなっていた。
時間をくれと言った。
そして、
「やっぱり無理だ。衝撃が強すぎる、と許可が下りなかった。」と言った。
世の中、そんなもんか…と若気の至りで感じたものだが、
今考えると。。。
本当にやれたのか、最後まで責任がもてたのか、
…ていうか、無理だったよ、やっぱり。
私自身、生きること自体の経験値が低すぎて。
その後、大阪の小学校でこれに取り組んだ若い先生がいると知った時、
心から尊敬したけれど、
当時、テレビ放映され話題になったりしてしまったので、
なんだか距離をおいたまま時が経っていた。
そして、ストーリーの結末を知らないまま、DVDを観た。
子どもたちのやりとりの一言一句がすごい。
本質に迫る議論を真剣にしている。
「あんなにみんなでかわいがっていたPちゃんを食べるなんて信じられない。
かわいそうだと思わないんですか。」
「Pちゃんを食べることが、最後まで責任をもつということだと思う。」
「飼育を申し出てくれている3年生に、このまま飼い続けてもらえれば、
自分たちも交代で手伝いにこられる。」
「3年生に任せて、ときどきくるだけじゃ、無責任。自分たちの卒業と同じで、
Pちゃん食べることでPちゃんも卒業させてあげなければいけない。」
「Pちゃんを食べるということは、殺すということ。殺すのは平気なの?!」
「殺すのではない、いのちをいただくんだ。」
「Pちゃんは愛情をもって育ててきたのだから、他の豚肉とは違う。」
「牧場の人だっていっしょうけんめい育てているのだから、
スーパーに並んでいる肉と違わない。」
どこまでもどこまでも平行線をたどり、同じ議論をぐるぐると繰り返す。
「Pちゃんを食べれば、Pちゃんのいのちが自分の体の一部になってくれるような気がする。」
これが一番衝撃だった。
ラコタインディアン、ミタクエオヤシンだ。
インディアンの人たちは、バッファローや野うさぎをとって
その肉も皮も爪も、余すところなく使い、
最大限に命への敬意を払うことは知られている。
それよりももっと前
森へ入る何ヶ月も前から
太陽へ祈り、身を清めるのだそうだ。
いのちをいただくということは、それだけ、<覚悟>を迫られることなのだ、な。
その映画で、最後に子どもたちはそういう<覚悟>をしたと思う。
ほかの生きものの命をいただくことはたやすいことではない。
身を切り刻まれるように痛みを伴うことなのだと、
命を想い、学んだことだろう。
そういう話し合いをした仲間全員が、ものすごく強い連帯感でつながっているのを感じた。
さて。
「ニワトリのいのちをいただくキャンプ」を実現できなかった私は。
気持ちを新たに企画を出した。
その名も「インディアンキャンプ」!
もう20年も前のことですよ。
うーん。つながっているね。
あのときの私と今の私。
こうなるとわかっていたような気もするのだ。
生きていると、いろんなことがつながっていく。
不思議だな。
「しっかりと自分のスタイルがあれば、ものごとはつながっていくんだよ。」と
母が言った。
|
|
Re:ミタクオヤシン(すべてのいのちはつながっている)(08月19日)
|
|
|
カトリーヌさん (2009年08月20日 00時28分)
そう、私もそれがしたくて、ある年のパーティ合宿のとき、秋川にいって魚を釣らせて、親
指くらいのこざかな5匹をみんなで食べました。
昔、ラボランドで七面鳥を飼っていてね、谷川さんが食べたいと言って。
でも、つぎつぎ野犬にやられたの。それでやられないうちに食べようということになり、ニ
コルさんが呼ばれた。
ニコルさんが引導を渡した七面鳥は、その後も数メートル走っていったので、さすがの坂口
さんたちもげんなりしてしまい、肉食文化のニコルさんを尊敬するやらあきれるや
ら・・・。
もっと昔、ラボランドの残飯は黒姫のぶたちゃんが食べていた。
だから、生ゴミと残飯は分けていたのです。残飯の方に梅干しのタネや醤油のチューブがは
入らないようにしたり。
食べるかどうかは別としても、ラボランドで動物を飼いたい、と私は思っています。
昔はいたんですよ。犬や山羊が。食事作りのおじさんが連れてきていたりね。
いのちが繋がっている場を、敢えて作らないと実感できない世の中です。
|
|
Re:ミタクオヤシン(すべてのいのちはつながっている)(08月19日)
|
|
|
おようさん (2009年08月21日 08時58分)
すごいですね。インディアンはいぐいぐさんの心にずーっとあったもの
なのですね。我が家でも長男が小1から小3までクラスで山羊を飼って
いました。担任が変わる小3の時に同じ議論があり、結局近くの小さな
動物園に引き取ってもらいました。食べるという選択はなかったのです
が。当時、このようなことが身近でよくありましたが、そういう教育を
受けた子供たちがどのような大人になるのか、とても興味がありまし
た。「バッファローのむすめ」を発表しようと思っているのですが、つ
ながるというのがやはり一番難しいと感じています。
|
|
Re:ミタクオヤシン(すべてのいのちはつながっている)(08月19日)
|
|
|
7 flower’S momさん (2009年09月13日 09時45分)
確かに答えはないかも知れませんが
|
|