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ネイティヴ・アメリカンを訪ねる旅~ その2 06月11日 (木)
「インディアン」か「ネイティヴ・アメリカン」か、
私たちのような外国人があなたたちを呼ぶ場合、どちらで呼ぶのがいいのですか?
と、ナバホ族の方お二人に尋ねてみた。
不躾な質問だったろうが、どちらも快く応えてくださった。

(ナバホの人は1つの質問に対する答えがとても長い、伝えたいことがたくさんある---のが特徴と聞いていたし、実際にも感じていたのだが)
アダムさんの答えは明快だった。

「ネイティヴという呼び方は、表せる範囲が狭いように感じる。
ここに生えてる草も、この空を飛んでいるあの鳥も、全部『ネイティヴ・アメリカン』なんだよ。
遠い昔からここにいて、今もここの住人。この大地の一部。
でも、インディアンというと、たどって行けば、遠い遠いアジアのかなたに自分たちのルーツをさかのぼる事もできる。
そこからきて、いまここにいる。
大陸を超えて、多くの足跡をたどって、それらすべてを言い含めることができるから、こちらの方が、ぼくはいい。」

その昔、白人がアメリカ大陸を発見した時、そこをインド大陸と間違え、先住民をインディアンと呼んだという有名な、
考えれば腹立たしいようなインディアン命名説がある。
しかし、ネイティヴ・アメリカンという呼び方もまた、
ムーブメントによって意識改革された白人、というか非先住民の側の人間が名付けたネーミングなのだ、ということは、知っていた。

参考URL:
http://www.indeanakama.com/now/native.html
http://native.way-nifty.com/native_heart/2009/01/post-1f3a.html
http://www.aritearu.com/Influence/Native/Indian.htm

このどちらをもふきとばす説明で、深い思想だなと思った。



ナバホ出身で教授、今回のガイドをしてくださった、チャーリーの答えは…長かった。
前述の一通りの説明があった。勉強していったからここまでは理解できた。
しかし学者さんらしく(?)、
「今のアメリカはとても複雑。
インドから来たアメリカ人もいる。
そういう人たちはインディアン・アメリカンといって…」と、
どんどん難しい話になっていくので、ちょーっとまって~っ!!

「でも、ぼくたちは自分たちを、ぼくたちのことばで
 DINÈ(人々、民)と呼ぶのが一番ふさわしいと思う。
 あるいは、ナバホ族なら、ナバホ。
 ホピならホピ…とね。」

そうだよね。
ナバホとホピ、それとアコマ。
私が見た、たった3つの部族でもこんなに違うんだもの。
ひとつの国と考えてもいいくらい、
驚くほど多様に、
それぞれに独自の文化、言語、暮らしがあった。

じゅっぱひとからげに、
インディアンと呼んでいた自分が恥ずかしいくらいに。

「あの」羽飾りの冠はかぶらない人たち
ティピーを使わない人たち
トーテムポールを作らない人たち
それぞれに違うんだ。

小さな売店で
アパッチ族の戦士、ジェロニモの肖像画ハガキがあったから、
シアトルのハガキもあるといいなと
お店のおばちゃん(ナバホ族)に聞いたら、
「そんな遠いところのはおいてないよ。」
と言っていた。


結論として。
ラボでは
ネイティヴ・アメリカンと呼ぶことにするようだから
表向きそれに合わせよう。
でも、
できれば、私個人は、自分のこだわりとして
ナバホ、ホピとよぶようにしたい。


そう。
そういうわけで。
今度の新刊ラボ・ライブラリーの
『太陽へとぶ矢』と『バッファローのむすめ』は明らかに違う部族です。

『太陽へとぶ矢』は、
お母さんの髪型と、4つの部屋を通る大切な場所「KIVA」が四角形であることから、
ホピ族とわかるのだそうだ。(チャーリー説)

『バファローのむすめ』には、ティピーがでてくるので、
移動型の草原インディアンかな?
何族かはこれから勉強。
Re:ネイティヴ・アメリカンを訪ねる旅~ その2(06月11日)
カトリーヌさん (2009年06月11日 21時28分)

ネイティブ・アメリカンは部族により違うのです。それをちゃんと言って下さってありがと
う。
次男がアメリカの小学校にいるとき、世界の文化体験というテーマでWSをしました。
どの民族を選ぶかは、その学年が選び、次男たちはネイティブ・アメリカン。
(三男は「日本」で、私がインストラクター。おむすびころころを中心に日本文化WS)
君はナバホ、ぼくはホピ、だれだれちゃんはショーショーニ・・・・そんな会話が弾みまし
た。
「私のモカシン貸してあげようか?」「だめ、文化が違うから。」「あ、そう。」
今回のライブラリーも、いろいろな部族から選んであって、よかったなと思っていました。
直ぐ近くの部族でも、生活様式が違ったり、ことばが違ったり、巡回?ルートが違うために
一生会わなかったり。
そうかと思えば、もちろん勢力争いも。それに白人がからんで・・・。
私は、しばらく、西部劇を見れない時期がありました。
マイノリティ優遇政策の矛盾も見て、ごちゃごちゃ考えても及ばないものを感じました。
いろいろあった末に、今は「水戸黄門」だと思って楽しめるようになりました。
文化と文化が接触するとき、痛みが伴う、といったのは、月旦中学の校長先生でした。
それでも交流したいと。目を背けず。
今回の3つのライブラリーで取り上げている他にもいろいろな部族のいろいろな説話があり
ます。
物語の運びも、ヨーロッパ流の起承転結とは違うので、それになれてしまった私たちにはな
じみにくいものもありますね。
文化・文明・地域により、物語の運び(文章表現)が違うのは、元となる思考の運びが違う
からだそうです。
よくアメリカ人は論理的思考、日本は違うといいますが、世界的規模でみるともっといろい
ろな思考の仕方があるのですよね。
それを物語が語ってくれるというのが、すごいと思います。
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