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取材のことを…初めて記す |
10月23日 (木) |
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去年、ラボのパブリシティ局のお手伝いで、取材の場を何度か経験させていただいた。
主にテューター募集の記事。
幅広いラボの活動やフィールド、稀有なメソッドを、
あいまいではなく、絞り込んで、
外部に向けてきちんと伝わる形で発信しようとするラボセンタースタッフKさんから学んだことは大きかった。
自分に嘘のないように、
身の丈に合った「ことば」を探しながら、
歩き始めたばかりのテューターとしてのつたない気持ちを
プロのライターさんを通して文字にしてもらってきたことも
すごく勉強になる、貴重な体験だった。
「自分がこれまで歩いてきた道のりはすべて、ラボの仕事につながっている。
無駄なことはなにもなく、活かされているんだ。」
なんとなく進んできたようでいて、ちゃんと引きつけられていた
「磁石」のようなものはあったんだな、と
自分のバックボーンがぴしっと伸びた気もして。
テレビ、ネットラジオ、雑誌、コミュニティ記事…さまざまな媒体の取材で垣間みた情報の世界。
情報は人の手によって創出され、発信されるのだ。
この広い世の中でラボが一体どういう人たちのアンテナにキャッチされるのか、
こちらも感性を研ぎすます。
この仕事に、願いに、共感してくれる人がありますように、と。
とても神経を使う作業なので、
取材の日は疲れてしまって、いつも夕食がつくれなかった。
こんな感じで取材があっても、ラボっこはいつも落ち着いていて普段通りのパーティをしてくれる。
カメラなんか、気にしていない。
お母さんたちも協力的で、ほんとうにありがたかった。
画像はもう、私たちの手を離れ、今もあちらこちらで活躍しているようだ。
同じ画像を何度も使うのは、「イメージの統一」という重要なコンセプトもあるのだそうだ。
(それが私の画像だなんて、とても申し訳ないのだけれど…)
と、ここで言い訳をひとつ。
今、出ているアルクの「こども英語」。
この記事は私が語っているような形で編集されているが、
もちろん私が書いたわけではなく…
この中で、「こどもに”教える”」ということばが使われていて、ちょっと残念。
私自身は、ラボっこたちを前に「教えている」なんて思っていないのだけれど。
でも、もう一人のラボ・テューターの方が
「ラボは英語を教えるというのではなく、子どもを楽しく導くガイド役」と
ちゃんと書いてもらっているからよかった。
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