アイルランド拾い読み 土地戦争
『紀行アラン島のセーター』伊藤ユキ子 晶文社
102ページ
アラン島イニュッシュモアでの土地改革闘争のことが紹介されている
遺跡ドンエンガスへ行く途中に「キルマーヴェイゲストハウス」と言う宿がある
これは19世紀末に島の大地主だったジェームズ・オハティの館であった
恨みをかっていた地主への報復は彼所有の雌牛を皆殺しにするというもので、1881年1月に決行された その数は21頭とも33頭ともいわれる
目隠しした牛たちを断崖のふちまで引っぱってゆき,
80m下の海めがけてつきおとすという荒々しい策だったようだ
作戦が遂行される間、雌牛の鳴き声や物音を紛らすために、こどもたちも動員され、道で空のバケツを叩いたり、ハープをかき鳴らしたと伝えられる
小作権妨害の罪に問われたオフラハティは同じ年の11月裁判に出向くためにゴルウェイゆきの蒸気船に乗る
キルナロンの港を離れんとしたとき、神父が叫んだ
「2度と戻ってくるな!アーメン」
まもなく彼はゴルウェイのホテルで死んでいるのを発見される
呪どおりになるという劇的な結末だった
『図説アイルランドの歴史』リチャード・キレーン 彩流社
1880年代の土地戦争は、多くの点で古い伝統的な、農民の暴力の復活であった
1880年代をとおして、土地戦争はボイコット、放火、牛を傷つけること、脅迫などの形態をとって闘われた
ロンドンの英国政府は様々な度合いの強制と懐柔で対応した
1845年ジャガイモ胴枯れ病1849年まで飢饉続く
地代を払えない小作人は地主によって立ちのかせられた
100万人の死、100万人の海外移住、人口減少
1870年小作人の諸権利を保障するアイルランド土地法成立
1870年代、立ち退きがふくれ上がり続けた
1879年アイルランド全国土地同盟設立 目標は・・・
適当な地代、土地保有権の固定化、小作人の農地利権の自由な売却
1879年ー1983年『土地戦争』
地主からの令達や農民追放は大抗議行動の的になった
地代が払えずに追放された農民は匿われ、助けられた
1881年土地法 小作人の農地保有券の原則を確立、仲裁裁判所を設立
1885年アシュボーン法令 小作人への貸付金制度
1903年ウィンダム土地法
この土地闘争は莫大な土地を地主から小作人に移転させる効果があった
プロテスタントの支配力を無数の小さな独立した所有者に置き換えた
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