|
|
|
|
|
[一覧] << 前の日記 |
次の日記 >>
|
京都旅行四日目 仙洞御所 修学院離宮2008/06/23の日記 |
06月23日 (月) |
|
11時仙洞御所 見学
仙洞御所 (せんとうごしょ)とは、退位した天皇(上皇・法皇)の御所
仙洞とは本来仙人の住み処をいい「せんどう」とも読まれる
転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいう、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われる
現在、京都市にある京都御苑内には京都御所の南東に仙洞御所が位置しているこれは1627年(寛永4)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という
小堀遠州によって作事された庭園が広がっている
仙洞御所の建築群は1854年(安政1)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っている。なお、仙洞御所東北に隣接する大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっている
今は皇族が宿泊される
1630 仙洞御所竣工 後水尾上皇移る
1636 仙洞御所初期庭園完成
1657 仙洞御所で浄瑠璃、歌舞伎、能、俳諧などの催し盛ん
事前申し込みが必要
指定された時間は11時なので京都御所内を散歩
サミットが近いため御所内に迎賓館もあるので警備の警官が多い
仙洞御所の建物は残っていないとのことだったのであまり期待してはいなかったのだが、庭園は落ち着いた緑とが池に映えて素晴らしいものであった
四季折々に何度も来たい庭である
出町柳まで歩く
電車で一乗寺へ 徒歩15分ほどで曼殊院
曼殊院(まんじゅいん)拝観
伝教大師(最澄上人)の草創に始まり(8世紀)、比叡山西塔北谷にあり「東尾(とうび)坊」と称した 曼殊院と改称されたのは天仁年間
智仁親王の息子である智忠親王の4歳違いの弟である良尚親王は13歳で出家している
良尚入道親王(りょうしょうにゅうどうしんのう、元和8年12月16日(1623年1月16日) - 元禄6年7月5日(1693年8月6日)
1646 良尚親王、天台座主となる
この寺に明暦二年(1656)に二十九代として入寺され、現在の地に堂宇を造営した
この1656年には、すぐ近く(歩いて10分)、隣といってもいい、で後水尾上皇による修学院離宮の本格的造営がはじまっている
相談されたのであろう
良尚親王の書や絵の格調の高さ、人柄の穏やかさがにじんでいて感嘆した
午後3時 修学院離宮見学
こちらは3時の指定であった 1時間15分ほどのツアー
1626 寛永3年には二条城行幸が盛大に行われ,朝幕関係は好転するように見えたが・・
1626 後水尾天皇は、大徳寺・妙心寺等の禅僧に紫衣(しえ)着用を許可したが、幕府は翌年その勅許を無効とした
1627 この「紫衣事件」を契機として,
1628 寛永6年,にわかに女一宮(おんないちのみや)興子(おきこ)内親王(明正天皇)へと譲位 上皇となる 退位させられたとも言える
公家諸法度など幕府による朝廷圧迫がありながらも
朝廷の権威は維持し
仙洞御所をつくらせ、修学院離宮をつくらせとお金を出させ、
秀忠の娘と結婚させられたが,夫婦の仲はとてもよく(心情こまやかで)
二人で仏教信仰と趣味の世界を送った・・・
したたかに生きたともいえる後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は1596~1680と長寿を全うした
東福門院は1607~1678
1656 修学院離宮本格的造営に着手
1658 桂 新御殿 明暦4(1658)年後水尾上皇のお忍び御幸
1659 修学院離宮 下御茶屋ほぼ完成後水尾上皇御幸、披露がある
1661 修学院離宮 上御茶屋ほぼ完成後水尾上皇御幸、披露がある
以後例年行幸
1663 桂 後水尾上皇の御幸3,11月
修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかの-)、下御茶屋(しもの-)と呼び習わす3か所の庭園からなる
面積は54万平方メートルに及ぶ 各御茶屋の間には棚田が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる (この松並木は明治になってから植えられたもの)
上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年(明暦元年)から1659年(万治2年)にかけて江戸幕府が造営した
下御茶屋からは見上げる景
上御茶屋からは見下ろしの景を楽しむ
秋の景色や雪景色も見てみたいものだ
農作業も含めて棚田の風景
浴龍池という人造湖
31回におよぶ行幸の折には必ずといっていいほど船遊びを楽しまれたという
堰堤を隠すための目隠しの大刈り込み 13m×200m
(椿山茶花、ツツジ、榊、杉、ひのきなど66種の灌木や喬木が混植されている)
出町柳まで戻る
鴨川沿いに河原町まで歩く
錦市場を覗いて京都駅へ
|
|
|
<< 前の日記 |
次の日記 >>
|
|
|
|