幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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桂離宮に行く 書き込み中2008/06/20の日記 06月20日 (金)
庭の勉強中なので、前から計画していた桂離宮見学に行ってきました
初めての桂離宮です

朝東京を出て京都へ 京都駅から東寺へ
東寺を拝観してからから桂離宮へ歩く
JRを北にくぐり抜け、八条通りをたどって
桂川を渡ったところに桂離宮がある
『源氏物語』では光源氏の別荘があったところ

参観者入り口へ230mの「桂垣」をたどる
生きた竹を折り曲げてつくった野趣にとんだ、珍しい垣根だ

桂垣


御成門(表門)を過ぎると「穂垣」となり、その先が参観者入り口の通用門
御成門は、丸太の柱と磨き竹を並べた気品のある簡素な門
この穂垣は竹矢来の如くすっくと立った太い竹に細かな穂竹を横に渡してあり
力強くまた繊細という不思議なおもむきがある

穂垣


三か月前に申し込んでから返送されてきた許可証を提示
荷物検査があってから待合室へ

ビデオを見てから約1時間の見学ツアーになる
解説の職員とともに進む 後ろから皇宮警察の人が警備につく
(写真撮影は止まったところではできる 移動中は危険なので禁止
建物の中には入れないが茶室などは中もよく見える)

「霰こぼし」と呼ばれる石を敷き詰めた道、御幸道たどって御幸門へ
「霰こぼし」は加茂川の青黒い小石を敷き詰め粘土で固めた道

幅は1,8mだが、長さ44mあり、
両側は。こけ、低い刈り込み、モミジの並木で構成されていてとても気持ちがいい
雨が降ったり病んだりの天気だったので、苔や木々の緑がとりわけ瑞々しい

この道の突き当たりに土橋がありアイストップになっていて
この道は西洋庭園からの影響を指摘されている

住吉松(衝立松)この松によって入ってすぐは庭の全景を見せないという仕掛けになっている

桂離宮全体が、自然の中を歩きながら、その自然は自然そのものではなく
簡素な人工的な造作によって、微妙に変化する空間の楽しさを味わう仕組みとなっている 
なんと文化的な空間であることか

州浜を経て松琴亭へ

賞花亭

園林堂

笑意軒とたどり
古書院、中書院、新御殿が並ぶ全景が見えてくる

書院


月見台をとおって御輿寄(おこしよせ)玄関前提
ここに「真の飛び石」「真の延べ段」が置かれている

おこしより

桂離宮では3種類の延べ段、飛び石、灯籠を見ることができる
その置き方がひとつひとつ勉強になる
文化財保護のためか1時間のツアーになっているのであまりゆっくりはできないのが残念
また来よう


勉強中のメモ

●桂離宮の歴史
1579年 智仁(としひと)親王誕生(1579年 - 1629年) 小堀遠州、正一(こぼり・まさかず)1579~1647と同年生まれ
    小堀遠州が桂離宮の造営に関わったという記録はないが、同時代の人として、関係する人々の間に交流があり、影響があったと見られる
    また武将であった小堀遠州への公家文化の影響も推測できる

1588年(天正16年)智仁親王は,豊臣秀吉の猶子(ゆうし)後継者となり,豊臣家の継承者として期待される
    しかし翌17年に側室淀君に男子鶴松が生まれたために解消
1589年(天正17年)同年12月八条宮家を創設
1591年(天正19年)1月に親王宣下を受けた 八条宮はその後桂宮と呼ばれる
1595年 鶴松が3歳で死んだため秀吉は甥の秀次を関白に継がせたが、秀頼が生まれたため邪魔となり
     乱心を理由に切腹させる
1598年 後陽成天皇は,秀吉の死後,慶長3(1598)年10月,突然,天皇の弟にあたる智仁親王への譲位の意を表明 
     しかし豊臣よりと見られ、徳川の反対にあって実現せず 
     関白、天皇を望まれた才能ある人物はその後・・・
     慶長5(1600)年には,22歳で細川幽斎より古今伝授(こきんでんじゅ)を受け
    (甥にあたる後水尾天皇に相伝し、御所伝授の始まりとなった)
     名実共に当代を代表する宮廷文化人に成長
     
     桂離宮の最初の建設は1615~1616
1615年 下津村の地に桂川の水を引き入れ「下津瓜畑のかろき茶屋」古書院ができる 
    関白を継いだ秀頼非業の死はこの年
1620年 智忠親王誕生 母はキリシタン大名、京極高知(秀吉、後に家康につかえた武将)の娘
1624年 智仁親王 一枝を折る身ともかな月の中の 桂の里の住居成せば
          雲は晴れ霧は消え行く四方の峰 中空清くすめる月かな
          月をこそ親しみあかぬ思ふこと 言はんばかりの友と向かいて 

1629年 元服して智忠親王となる
     智仁親王(1579年 - 1629年)没51歳 10年で荒れ果てたといわれるが
1631年 相国寺 懸卓「荒廃甚だしく感慨懐旧はなはだ切なり」
     このころの智忠親王の歌 なく虫の声もあわれにすむ月の 淋しさいかにあさじふの庭
                 月を身の友とて向かうよもすがら 思うことなき 窓のうち哉(かな)
          
1641年 智仁親王の息子である智忠親王が第2次の造営を開始 中書院
1642年 智忠親王 前田利常の娘富姫をめとる(母は徳川秀忠次女天徳院)経済的に豊かになった

1644年 智忠親王 病弱、結核を病んでいたため後継ぎに恵まれず後水尾院の皇子を養子にした
     三代目穏仁(やすひと)親王
1647年 智忠親王 妹西本願寺良如に嫁いだ梅宮を招待 「目を驚かし」「よそではこんなことはできない」と参加者絶賛
1648年 智忠親王の妹梅宮は29歳で没した

1658年 新御殿完成 明暦4(1658)年後水尾上皇 お忍び御幸
1662年 中書院、新御殿、月波桜、松琴亭、賞花亭、笑意軒を増築
    八条宮家2代の智忠(としただ)親王(1619年 - 1662年)没44歳富姫没44歳

1663年 明暦4(1658)年と寛文3(1663)年の後水尾上皇の御幸3,11月
1665年 三代目穏仁(やすひと)親王24歳で亡くなる
1675年 四代目長仁親王21歳で亡くなる
1689年 五代目長仁親王19歳で亡くなる
六代目から八代目はなんとか継承したものの、その後40年間も相続希望者はあらわれなかった
九代目はわずか2歳、十代目も4歳で没す

1881年 11代淑子(すみこ)内親王が亡くなり桂宮途絶
1883年 桂山荘は、宮内省の管轄となり名前が「桂離宮」となる

主を失ったままひっそりと佇んできた桂離宮の歴史である



●縁戚関係
正親町天皇─誠仁親王ー┬ 後陽成天皇 ┬ 後水尾天皇(修学院離宮)
           │       └ 一条恵観 (一条恵観山荘)
           └ 智仁親王  ┬ 智忠親王 (桂離宮)
            (桂離宮)  ├ 梅宮   (西本願寺黒書院)
                   └ 良尚親王 (曼殊院)

後日修学院離宮の近くの曼殊院で智忠親王次男の良尚親王の書や絵を見ることができた
書は格調があり、描かれた絵の鳥も虎も気品があって、人柄が忍ばれる素晴らしいもであった
この方々の素養水準の高さに改めて驚かされた

●宣教師によって伝えられた西洋の造園知識や手法がこの桂離宮に取り入れられたのではないかと言われている
御輿寄前庭の黄金分割平面
御幸門のビスタ
土橋をアイポイントとした御幸道
マツをアイポイントとした亀甲岬
ソテツの植栽
中秋の観月に合わせた方位角の月見台
すべて一定の高さにすべて刈り込まれた生垣
青と白の市松模様の襖など、数多くの幾何学的要素


1606年の宣教師による報告
後陽成天皇とキリシタンの結びつきはキリシタン大名の娘を妻にした
    天皇の弟八条宮智仁親王によると記されている
1613年の宣教師による報告によれば 
    御水尾院の妃が京都の協会を訪れ、自らは入信しなかったが
    家臣の入信は許したと言う
    後陽成天皇が宣教師にヨーロッパの技術を、宮廷関係の庭園や建築を造る
    「宮廷付き工人」と言う人物に教えるよう命じたという
    この人物こそは江戸幕府作事奉行小堀遠州なのである
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