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上海を見た侍たち |
11月14日 (火) |
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上海を見た侍たち
1858年安政開国から1868年明治維新まで10年間に
江戸幕府は前後7回大小の使節団を欧米に派遣している
このほか幕府と有力藩から幾度か留学生派遣が行われた主なものは6回
そのうち上海に寄港しているものまた上海を目的地としているものをピックアップ
1862年長崎奉行企画 使節団 上海へ外国商法探索、中国との通商条約のための調査 総勢51名
高杉晋作、中牟田倉之助、五代友厚
4/29長崎 貿易船千歳丸にて発 1週間
5/5上海着 太平天国の乱で農民軍の包囲下にあった
2ヶ月逗留
1863年箱館奉行企画 使節団 上海の貿易状況視察
アスターハウス 礼査飯店 現在の浦光飯店
1863年長州藩から内密にイギリスへ派遣留学 イギリス商船による渡航 上海経由
井上馨、伊藤博文ら一行5人
出発時の伊藤「ますらをのはじをしのびてゆくたびは すめらみことのためとこそしれ」
伊藤「甲板上より港内を見渡し、各国の軍艦、汽船、帆船等の出入り頻繁を極め
沿岸には輪かんたる洋館櫛比する等、その繁華の光景に一興を喫した」
井上「上海に来て実際の景況を観るに及んで」「従来の迷夢は頓に覚醒し」さっそく「攘夷の謬見(びょうけん)」を捨て
「開国の方針」を主張するようになった
西洋近代を体験 「繁華の光景」に強い衝撃を受けている
租界の先進性とともにその背後に隠されてある県城に対する「圧迫」という西洋植民地主義をも発見した
半植民地としての上海を見た
高杉日記「実に上海の地は支那に属すといえども英仏の属地というもまた可なり」
「あに図らんや(どうしてそんなことを予測しようか)吾が邦人と雖も(いえども)心をもちいざるべきなり
支那のことにあらざるなり」
帰国後「奇兵隊」という一種の国民軍創設
1864年●第3回幕府使節団フランスへ横浜鎖港外交交渉 池田長発(ながおき)
フランス軍艦、郵船による渡航往路、帰途ともに上海経由
アスターハウス 礼査飯店 現在の浦光飯店 宿泊
フルコースディナー、ピアノ演奏、朝食後のコーヒー、写真館
1865年●第4回幕府使節団フランス、イギリスへ 横浜製鉄所建設準備 技師招聘等 柴田剛中(たけなか)
イギリス郵船による渡航 往路、帰途ともに上海経由
柴田剛中、福地源一郎
1866年幕府派遣イギリス留学生 イギリス郵船による渡航 上海経由
中村正直,川路太郎
1867年幕府派遣フランス留学生 フランス郵船による渡航 上海経由
徳川昭武、杉浦譲、渋沢栄一
1867年幕府使節団 第2回パリ万国博参列 フランスへフランス郵船による渡航 上海経由 同じ船
徳川昭武、杉浦譲、渋沢栄一
上海での彼らの行動をいろいろ想像すると楽しい
小説が書けそうな気までしてくる・・・
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1863年長州藩から内密にイギリスへ派遣留学 イギリス商船による渡航
これは藩主の内諾を得ての密航であった
井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾傭三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)
後に井上(馨)は外交、遠藤は造幣、山尾は工学、伊藤は内閣、井上(勝)は鉄道で活躍している
11月4日、ロンドンに到着。
1864年3月 密航者5名は日本発の
「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、
連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道を聞く
井上と伊藤は直ちに帰国を決意
4月中旬 井上と伊藤はロンドンを発つ 他の3人は残る
6月10日頃、2人は横浜に到着・・・・
長州五傑 ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E4%BA%94%E5%82%91
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2006年、この5名の渡航前後の様子を描いた映画
「長州ファイブ -CHOSYU Five-」が作成され,
山口、福岡ではこの秋に公開されている
東京では2007年にはいって公開
映画『長州ファイブ』のウエッブページ
http://www.chosyufive-movie.com/
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