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秋に向けて思うこと 09/04の日記 |
09月04日 (月) |
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9月の声を聞いて、いつまでも続くように思われた暑さも、少し緩み、確実に地球は回って季節は移ろっていく事を感じさせてくれます。我が家の周りは蝉だらけ、ということはこの季節は、変わり果てた蝉の姿がそこかしこに。自然は色んな事を感じさせてくれます。
一昨日のラボの帰り。今年カナダにホームスティしたNちゃんが帰りの車の中で「日本語って難しいですね」と。「どうしてそう感じたの?」と話ていくと、カナダで英語でコミュニケーションして、英語は大人に言うにも子供に言うにも表現があまりかわらないこと、日本語には色んな言い回しがあって、熟語など難しい言葉が多い、と思ったよう。そして、日本語には敬語があってどういっていいか難しいとも感じたよう。
同じ事を以前行ったYも帰って言っていました。
本当に日本語をきちんと使いこなせるってすごいこと。日本語ってもしかしたら世界で一番難しい言葉かもね。それが出来るってすごいことよね、と。
また「向こうの人は他の人を悪く言ったりしない気がした」とも。
今の子供たち、学校で他の人になんていわれるか、恐々。自分の気持ちも、「こう言ったら周りの子に何か言われないかしら・・」と言う前にそっちを考えてします。
「そうねえ、アメリカやカナダはいろんなところから集まってきていて、家庭の元の文化ややり方も違うから、あそこはそうなのね、あなたはそうなのね、でも私はこうよ、ですんじゃう。日本はちょっと違うと、すぐにあの人へん、とかいろいろ言うよねえ」というと、「うんうん!!向こうの方がいい」
日本の中だけにいたらそのことにも気づかないで、日々、周りの人の眼を気にし続けなくてはならない。「それに気づいたってすごい!!よかったねえ」と。
夏活動をしたり、いろいろな事件があったりして、今感じていること。
何かあったとき一番に出てくる言葉「僕じゃない」「○○ちゃんがやった」
「○○ちゃんはどう感じたの?」「○○ちゃんは何をしたの?」「○○ちゃんはどう思うの?」「○○ちゃんはどうしたいの?」と聞くと、首をかしげてなかなか言葉が出てこない。
人のことばかりで自分のことが見えていないし、自分自身にセンサーが向いていない。
小学校低学年はまさに無意識で無理もないけれど、年齢が高くなってもその傾向が前より強くなった気がする。
前述のNちゃんの感想。人のことばかり。
留学から帰ったNと日本語で一緒に文を書くことがあって、英語と日本語の事を話していて「日本語ってどう書いていいか分からん。英語の方が書きやすい気がする」って。「日本語は主語が隠れているよね。英語って主語を明確にしないと文にならない。」て言う話もして、「日本人は話す時に主語が無意識で、自分は誰の気持ちを話しているのか、自分と他人の線引きがあいまいで、ぐっちゃになってるところない?」て言うと「確かに・・」と言っていた。
日本のあわただしさもNは感じてて、「もう私もその中に浸かっちゃってるけど」って。学校行事にしても情報にしてもばたばたとして、大人も子供も自分の気持ちに向き合うこともなく、日々が過ぎていく。
「人は悲しみが多いほど人にはやさしく出来るのだから」武田鉄也「贈る言葉」のフレーズ。
悲しみ、喜び、寂しさ、悔しさ、子供のそういった感情、気持ちを引き出して言葉にしてやる、そしてそれを一緒に共有できるいい関係を作ってやることが、今の私たちに大事かな、と感じています。
夏の終わり、子供を取り巻く事件が続けて起こりましたが、このことを子供とどう話すのか。
年代によって向き合い方は違いますが、新学期が始まって、高校生に「学校で話が出た??」と聞くと、「全然!!」だそうで。
もしも自分だったら、自分の友人だったら、大人はもしも自分の子供だったら、その学校に行かせていたら、と自分のこととして考えるチャンス。報道の仕方はいつも「人のこと」ばかりで、マスコミのこういう報道の仕方が、「人のこと」ばかりの風潮を助長している気も。
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