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サンクトペテルブルグとドストエフスキィー |
08月29日 (火) |
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サンクトペテルブルグとドストエフスキィー
サンクトペテルブルグはドストエフスキーが住み、作品を書き、亡くなった町である
ネヴァ川、橋、作品に描かれたサンクトペテルブルグの街を見たかった
サンクトペテルブルグを流れるネヴァ川
ネヴァ川は大きい、ゆるやかに流れ、対岸にはドストエフスキーが収監されていた要塞監獄が見える
当時とあまり変わらない4階建ての建物が続く町並み
昔のままの街並みのままである
2003年建都300年のお祝いの頃から建物の修復が急速に進んでいる
修復は痛んだ場所を補強し、新しく建物を塗り直してしまう
きれいにはなるが新しすぎる嫌いはあり、昔の姿は修理されていない古い建物から推察するしかない
バスで、徒歩で、運河からネヴァ川のクルーズで街を見る
道路も広場も昔と位置は変わっていない
建物は表面はともかく中はレンガ積みのようだ
今もドストエフスキーが住んだ建物が残っている
最後に住んだ部屋はドストエフスキー記念館となっている
墓は泊まったホテルの前のアレクサンドロフ・ネフスキー修道院の墓地にある
墓には白い薔薇が手向けられていた
ラスコーリニコフが住んだ建物、ソーニャの住んだ建物もあるという
今回は行けなかったが街の雰囲気はわかった
ドストエフスキーが見た景色、ラスコーリニコフが見た景色を見ることができた
サンクトペテルブルグは
ピョートル大帝が、1703年に「ペトロパブロフスク要塞」を築いた古都に始まっている
1694 ピョートル 22歳にして国政を担当
1696 トルコ要塞アゾフを陥落させる
西欧へ300人を超す使節団派遣
自分も秘かに参加
アムステルダム造船所で働いたというエピソードがある
1698 銃兵隊反乱で帰国 1000名以上公開処刑
1700 スエーデンとの戦争
1703 ネヴァ川河口に進出要塞建設
さらに沼沢地を埋め立て アムステルダムをモデルに都市建設
1715 サンクト・ペテルブルグ 首都となる
サンクトペテルブルグ2003年に建都00年を祝ったとても新しい町である
フィンランド湾に河口があるネヴァ川は大きな川である
ドストエフスキィーは
1821年モスクワ生まれ そこで15歳まで育っている
16歳のときペテルブルグの工兵学校にはいり、卒業後は陸軍中尉として工兵団製図局勤務、1年たらずで退職
1846年、処女作『貧しき人々』
1849年に官憲に逮捕 死刑判決、処刑間際に特赦
1854年までシベリアで服役
この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』 刑期終了後、兵士として勤務
1858年にペテルブルクに帰還
1866年『罪と罰』、『賭博者』
1868年『白痴』
1870年『永遠の夫』
1871年『悪霊』
1875年『未成年』
1880年『カラマーゾフの兄弟』
1881年1月28日死去享年60歳
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