ホロコーストの物語を読む自分、映画を見る自分
加害者の側にいたり、見て見ぬ振りをする側にいたり、被害者の側にいたり
私はその場で何をできるだろうと思う
例えば、
占領下のポーランドにおいてユダヤ人をかくまうことは
自分にとっても家族にとっても死を意味した
見て見ぬ振りをした人々、関わりを怖れた人々がいる
それでも家族を持っていながらたくさんのユダヤ人を
かくまい助けた少なからぬ人たちがいる
その勇気・・・・・
絶望的な状況下にあってもワルソーゲットーで蜂起した人々がいる
女たちはドイツ兵が上がってこられないようにバケツで階段に水をまき
凍らせたという
最後は屋上に逃れ子供たちを投げ落としたあと自分たちも後を追ったという
反抗へのその勇気・・・・・
「みんな殺されるという噂がある」
だが「そんなことはない 収容所で働かされるだけさ」というかすかな希望もある
普通の人間にとってはたとえ希望が10%であっても、
その10%に頼るほかない
そのような状況下にあって殺されていったたくさんの人々
その中にあって立ち上がれただろうか
自分の問題として考えるのでなければ
ホロコーストの物語を読むことも、映画を見ることも意味がないと思う
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