戯曲 井上ひさし『父と暮らせば』 |
03月13日 (日) |
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新潮社1998年発行 1100円
初出 「新潮」1994年10月号
初演 こまつ座第34回公演 1994年
台本を改めて読んだ
日本語が美しい
方言が美しい
井上ひさしの後書きに台詞を超えた力のことが書かれている
わずか5ページだがとてもわかりやすい演劇論だ
ほんの少し紹介
劇場の機知ーーあとがきに代えて より
「ほんとうの劇作家とは、それまでになかったような新しい演劇的時空間
をつくりだそうとして苦心する作家のことです」
演劇的時空間とは「舞台でしかつくることのできない空間や時間」のこと
「演劇的時空間は、台詞に直に表れることはありません。
台詞の底にあるもので、もっと言えば、台詞を作り出す土台になる機知、
劇場そのものがもとから備えている機知のこと
この劇場の機知こそが演劇的時空間の生みの母なのです。」
「これらの作品は、各国で翻訳され、世界のあちこちで上演されていますが、
その理由はただ一つ、
「日本語で書かれた台詞は言葉の壁に突き当たり、
翻訳という名の壁壊しの作業を通して大幅にその魅力を失いますが、
劇場の機知だけは、
全く無傷のまま言葉の壁をすんなり通り抜けることができる。」
このあと『父と暮らせば』のにおける劇場のの機知、構成を語っている・・・・
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Re:戯曲 井上ひさし『父と暮らせば』(03月13日)
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ゆーさん (2005年03月14日 22時35分)
昨年、広島でこの映画が上映されたとき、観に行きました。怒りや反戦
のメッセージが前面に出ることもなく、美しい映像と語りでつづられて
いました。あれだけの惨禍を生き残ったものの罪悪感、生きている自分
を責める被爆者の心情を日常のことばで語ってありました。
つい先日の中国新聞の「ヒロシマを聞く」というシリーズものの記事
で、60年前、高等女学校一年だったかたの証言がありました。
「全滅のクラスと聞いておりました」怒りを秘むる亡友の母の瞳
爆心地から700メートルで建物疎開作業中の1年生220人余り、逃
げ延びた一部もみな息絶えたという。たまたま病気で休んでいたKさん。
その負い目を級友たちの33回忌にあらためて思い知らされたそう。
「うちの子は熱があったのに、お国にためにと(作業に)でた。なのに
あなたは・・・」
50回忌になってやっと遺族たちの許しを得たような気がして証言をは
じめたとありました。
この記事を読んだとき、「父と暮らせば」の映画の宮沢りえと重なりま
した。
広島弁についてですが、わたしが聞いても、「へえ~、こんないいかた
してたの」と思うことばや表現がたくさんありました。宮沢りえのかた
る広島弁の響きはとても美しく感じました。60年前と今では日常使う
ことばも変化して、失われたものもたくさんあるのでしょう。でも、あ
の独特のイントネーションは今でも健在です。
ちょっと重くなってしまいました。ごめんなさい。
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Re:戯曲 井上ひさし『父と暮らせば』(03月13日)
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アスベルさん (2005年03月15日 08時56分)
広島の方からの書き込みありがとうございます
映画も、戯曲も、
生き残ってしまったものが持ち続けている気持ちを
静かにしかし強く伝えようとする、よい、優れた作品だったと思います
広島のことばのリズムもよかったです
東京育ちで、標準語で暮らしているのは
何か大きな損をしているような気持ちにもなりました
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