地域社会が生きていた頃の風景(未完) |
02月19日 (土) |
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地域社会が生きていた頃というのは
例えばこんな風景です
藤本義一さんの文章から(『人生の賞味期限』岩波書店 2001年)
小学校2年生の頃の思い出です
〈学校の往き帰りにブリキ屋の店先で魔術のようなハンダ付けを一時間近く眺めていたり、
石屋のおっちゃんが石碑の文字を彫り上げてゆく様子を隠れながら見て感動した。
どうして隠れて見たかというと石の砕かれた小さな破片が飛び散るためにおっちゃんに怒鳴られるためだ。
私の目には、こういった職人と呼ばれるおっちゃんが尊敬の対象だった。
学校の成績がいい友だちは別の頭を持った人としか理解しなかった。尊敬の対象にはならなかった。
そこで、このおっちゃんたちはどういう学校に通っていたのだろうかと考えた。
おっちゃんたちの仕事にはどういう道筋を辿れば到着できるのだろうかと想像した。〉
小学校2年生の藤本はおっちゃんに直接聞いてみることにした
〈ブリキ屋のおっちゃんは、こっちの質問に愕いた表情になり、厚い掌でくしゃくしゃの顔を揉みこむように撫でて、ぼそぼそした口調で言ったものだ。
「いやな、正直言うて学校が嫌いやってん。学校があかんかったさかいにな。
勉強が好きでようでけたら、学校が好きになってたやろな。そいで鋳掛け屋の小僧に出されたんや。
人間、なんぞしていかな生きていけんもんな」
こう喋っている間も鏝(こて)の先で鈍い音を立てた半田の玉は鮮やかな一本の線になって二枚の金属板をしっかりと付着させていった。
おっちゃんはそれが鉛と錫の合金であると教えてくれた。
目の細いおっちゃんの顔には照れくささと誇りが見られた
毎日と言っていいほど、三十分ぐらいおっちゃんの技術を見ていた。鍋、釜、薬缶、ブリキの玩具と修理の対象物はさまざまだったが、
おっちゃんは穴の空いた部分とか毀れた部分を暫く凝視して低い呻きに似た声を上げて修繕方法を決定すると、
手練の早業で半田で付着させ、小さな金槌でトントンと軽快に金属面の凸凹を平らにしたり、元の丸味に戻してゆくのだった。
薄暗い店の奥に幼い子供の叫び声やおっちゃんの嫁はんの叱る声があり、赤ん坊が泣いていた。
おっちゃんとのぼそぼそした会話(やりとり)の人生哲学の背景には生活があった。
はじめて、私は他人と接点を持ち、他人の心と触れあうことで人生とは何であるかと知ったように現在になって思う。
このおっちゃんの心から学ぶことはなにかと多かった。
「お金が仰山あっても、人間なんにも偉くなったわけやない。
使い途を間違うたり、もっとお金が欲しいと思うたりするだけの話やろ」
「他人さんが苦しんではったら一緒に考えないかん。
他人は他人と思うのは死んだ心や」
「あんまり虫を殺したらいかんで。虫かて命があるさかいに生きとる。
虫。小さいよってにな、痛いッというとっても聞こえんだけや」
おっちゃんのこういういった人生哲学を聞いて、
小学校2年生の心(考え方)は毎日いい方向へコロコロと転がって変わってゆくのだった。〉
私にもこんな経験があります
今は職人さんが働いているような小さなお店はどんどんなくなってしまいました。
大人が働いている姿を見ることがほんとうに少なくなっています。
働くと言うことの実感をこどもたちに伝えることがとても難しい時代ですね・・・
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Re:地域社会が生きていた頃の風景(未完)(02月19日)
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メリーポピンズさん (2005年02月19日 22時48分)
読んでたら なんや懐かしいなぁ~ って^^
昔、長屋に住んでました。
もちろん みんな お姑さんやら年寄りと同居がほとんどで。。
夕方になると おばあちゃんや おばちゃんがあちこちで
立ち話をしてたもんです。
「年寄りの言うことは 聞かなアカン!」っていうてるかと思えば、
「うちの嫁は 年寄り扱いしよる!」と怒っとるし。。(笑)
子供ながらに、あばあちゃん、どっちやねんなぁ?とお腹で思い
ながらも、大人って色々大変やねんな~とも思ったもんです。
他人さんの言葉のほうが身内から聞くより素直に受け取れた記憶も
あります。
今、娘たちやこどもらをみてると、
そんな近所の人でさえ、家族以外の大人と接する機会も少なく、
もちろん、「知らんおっちゃんとは絶対口きいたらアカンで!」と
何度も教え込む日々・・・寂しい社会になったよな・・・と
これを読んで改めて思います。
何気ない自然の会話から 人生を学ぶことができる地域社会に
また戻ることができる時代がくるんでしょうかね・・・・・
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Re:地域社会が生きていた頃の風景(未完)(02月19日)
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きよちゃんさん (2005年02月20日 11時50分)
なんだかとても懐かしいものに出会ったような気分で読ませていただき
ました。
すご~い温かい人の心を感じますね。ほんと、最近ではこういうことが
子どもの身近にはなくなったように思います。残念なことですね。
でも、私たちテューターの仕事は職人とは言えないですが、我が子は確
かにお母さんの仕事ぶりは見て育っていきますね。
そう思うのですが・・・、如何思われますか?
(大変そう・・・、ちょっとやれないね~)と思う子どももいるでしょ
うし、自分も・・・と思う子どももいるでしょうね。
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Re:地域社会が生きていた頃の風景(未完)(02月19日)
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アスベルさん (2005年02月20日 16時47分)
メリーポピンズさんへ
きよちゃんさんへ
書き込みありがとうございます
露地がなくなった、どんな道も舗装されて車が入ってくる
・・・・公園はあってもなんとなく集まる場所がない
テレビやゲーム、塾などがあってこどもの時間が細切れになっている
・・・・何をしてもいい、これからなにをしようかなという時間がない
ついこの間まであった地域社会が急速になくなったこと
という中で
ラボ・パーティの空間や時間はとても大切なものだと思います
そしていうまでもなくテューターという存在も・・・
ラボっ子のおかあさんやおとうさんたちも・・・・
ラボ・パーティは地域社会、コミュニティの回復という
大事な役割を果たしていると思うのです・・・
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Re:地域社会が生きていた頃の風景(未完)(02月19日)
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ぬっぴさん (2005年02月22日 18時47分)
懐かしく小さい頃を思い出して読みました。
私は下町で育ったので、学校や家の近くにはこのように小さなお店がたくさん
ありました。
ラボに行く途中には駄菓子やさんとたこ焼き屋さんがあって、「寄り道なんか
してないで早く行きな!」って怒られたり、帰りに「お腹すいただろう?」と
たこ焼き(3個串にささっていて10円でした)をご馳走になったり・・
学校の目の前にプラモデル屋さんがあっていつもそこで見本品を一緒に作らせ
てもらったりしました。セメダインの匂いが懐かしい!
洋食屋さんのおじさんは、余りに興味を持つ私を1週間お手伝いとして働かせ
て下さいました。
お客さんやみんなに可愛がられながらも、仕事の大変さをしっかり教えていた
だきました。
みなさんお元気だといいけど・・
変な例えかもしれませんがラボが必要でない世の中がくればいいのに・・
と思う事があります。
でも現実は・・
テュ-ターとして第2の母として近所のうるさいおばさんとして、がんばって
いかなければ・・
そして1人でも多くの家族がこの空間に身をおいてくれるといいですね。
*遅くなりましたがおきにいり登録させていただきました。
よろしくお願いします。
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Re:地域社会が生きていた頃の風景(未完)(02月19日)
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ハッターさん (2005年02月22日 23時55分)
何だか時間がどんどん戻って、思い出に浸ってしまいました。
そんなに昔の話しじゃないんですよね。同じような体験を私もしてるんですか
ら。何を買うわけでもないのに、通学途中に手を温めたくて寄らしてもらって
いた、お豆腐屋さん。集団登校なんて決まっていなくても、皆で
行って、そこの囲炉裏に手をかざさせてもらって。。
登校途中のどの家も知っている人で、声をかけてくれて。
私達が子供の頃は近所の人には元気よく挨拶しなさいって言われていたけど、
今の子供達は、どの人が近所の人かも分からないんじゃないかなあ。。
大人の責任だなって思っています。
自分が怪しい人じゃない人は、子供に声をかけていった方がいいんじゃないか
しら。。。皆が地域社会の力を意識しないといけないですね。
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