あのころはフリードリヒがいた |
12月08日 (水) |
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そのはなしは1925年から始まっていた。フリードリヒとぼくは同い年。同じアパートの2階と3階に住んでいた。いっしょに大きくなり小学校に入学した。それからもいっしょに大きくなるはずだった。ただフリードリヒがユダヤ人でさえなければ!入学式の日、二人の家族は写真屋さんで記念写真を一緒にとった。ぼくの父さんは職がなかったのでその日の昼食代はその写真にばけてしまっていた。当時はルドルフの家は裕福だったが時とともに学校はユダヤ人の学校に転校させられ、母親は町の暴徒に家を襲撃されたときに死んでしまう。空襲が激しくなった頃のある日どこかに潜伏していたルドルフが自分の心の宝物の両親が写っているあの写真を譲ってほしいとぼくの家にやってきた日、爆撃があり、フリードリヒはみじめに死んでしまう。今日は12月8日。真珠湾攻撃の日。
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Re:あのころはフリードリヒがいた(12月08日)
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がのさん (2004年12月10日 18時29分)
リヒターというドイツの作家をこの時期に想起なさる、
その代表作『あのころはフリードリヒがいた』を日本帝国主義の暴発と
結びつけてお読みになる人がラボ(敢えていうなら、お幸せボケのラボ)
にもいる……、なんだか、そのことがわけもなくうれしいです。
この少年小説でいちばん気にかかるところは、時代状況の恐ろしさとい
うことでしょうか。時代の嵐はぐるぐる巻きにして人間を巻きあげてい
く。好むと好まざるとにかかわらず、主人公の「ぼく」はユダヤ人迫害
の加害者の立場に立っていました。あんなにも仲のよかった幼馴染みを
裏切ってまで。ナチス政権下の狂気の風をあびながらここで生きていく
には、自ら「ヒトラー・ユーゲント」というナチスの少年団組織にはい
るしかない。「ぼく」はいつか、その隊員であることを誇りにさえ感じ
るようになっていく。その位置にいながらさまざまな偏見と迫害にさら
されて苦境を強いられるアパートの隣人のシュレーゲルさん一家の悲劇
を目の前で見ている。そうした葛藤のこころの時代を冷静に、客観的に
描いた、たいへんユニークな、ショッキングな作品ですね。爆撃がやん
だあと、防空壕から外に出てみる。フリードリヒがものかげでうずくま
っている。アパートからの追い出しにやっきになっていた家主が片脚で
ちょっとふれただけで、ことりと敷石のうえにたおれたフリードリヒの
絶望のすがたは、あまりにも胸に痛い。
しかし、考えてみれば、あのときでユダヤ人に対する迫害に終止符が打
たれたわけではなく、21世紀のいまにしてまだつづいていますよね。イ
スラエルとパレスチナとの戦争。ふるさとを去って2000年、その不安定
なさすらいはまだまだ終わっていない。まさに、人間はこの2000年とい
う時間のなかでどれほどの理性を獲得したのだろうかと問いたくなりま
す。
よけいなことですが、この12月8日という日は、なんとまあ、わたしの
結婚記念日でもあるという皮肉。しかし、云っておきますが、わたしは
そんなに好戦的な人間ではありませんよ。
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Re:Re:あのころはフリードリヒがいた(12月08日)
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がんちゃんさん (2004年12月11日 08時59分)
がのさん
お目をとめてくださりありがとうございます。実は、昨日がのさんのぺ
ーじをのぞかせてもらいましたが、あまり格調高くて恐れおののいてそ
ーっとそののまま閉じてしまいました。が、私も群馬県出身で同郷の好
ということで甘えてお返事書かせてもらいます。「真珠湾はどこにあり
ますか?」という質問に「志摩半島」と答える大学生がいたそうです。
(笑い話かな?)「あのころはフリードリヒがいた」はその章に年はか
いてあり軍隊のザックザックと歩く足音がだんだん近くなるのが聞こえ
てきます。フリードリヒがヘルがに恋したときもこんなにときめいてい
るのにこの少年には恋する資格もなく死んじゃうんだと涙が出てきまし
た。先生の授業(1934年)も自分が授業を受けているようです。アラ
ファト議長の死去もあり、PLO問題にも直接つながっています。世界
はつながっている、時代は続いていると着くつくずく考えさせられま
す。
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