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September 11th に思う。 |
09月11日 (土) |
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September 11th, 2001. その日は火曜日だったと思う。NPOみやざきの会議から帰っていつものようにNHKの夜10時のニュースにチャンネルを合わせた。アナウンサーがその日のニュースを読み上げようとして「臨時ニュースが入りました。ニューヨークの世界貿易センターに飛行機が衝突した模様です。」と告げた。それが終わるか終らない内に2機目の飛行機が貿易センターのもう1本のビルに突入。まるで映画の1シーンを見ているようだった。ほぼ同時刻に別の飛行機がペンシルベニアに墜落。ペンタゴンを目指していたらしい、と、信じられない悪夢が始まった日。そして逆襲の連鎖は今日に至っている。
1999年冬NYを訪れた際に立った世界へ誇る摩天楼が崩れてしまった・・?まさか・・・。とてもじゃないが信じられない。しかし多くの犠牲者を巻き込んで一瞬の内に消えてしまった・・。2000年夏、当時NYに居た息子(ユウキ)を訪ねた。ユウキは2001年5月にLAへ移っていたが、当時タイムズスクエアで息子を支えてくれた人々は無事だったのだろうか?ニューヨーク、ワシントン、次はロサンゼルスが標的だという噂が流れLAでも公共施設が閉鎖されたらしい。アメリカ国内の空港は全て閉鎖。アメリカ行きの飛行機はカナダへ到着し多くの人々は困惑の中で放置されたという。丁度1週間前にアメリカから帰国したばかりだった私は複雑な思いで画面を見つめていた。
ユウキが中学生時代のホストファミリー(NJ)にメールを打った。イトコの消防士が瓦礫の下に埋ったという悲しい知らせが届いた。看護婦の彼女(ホストマザー)は応援要請があるかもしれないという事で自宅待機をしていたが「必要なし」という連絡に肩を落した。怪我人には必要だが死人には不必要という意味なのである。
次年度のラボ国際交流も危ぶまれた。実際多くの参加者が延期や中止をした。我がPでも一人の男子が家族会議の結果キャンセルした。申請時、3月、そして直前という3段階でのチェックの上で2002年の国際交流は実施され、私はシャペロンとして20人のラボッ子と共にバージニアの地を踏んだ。独立戦争、南北戦争と常に歴史の舞台となってきたバージニアは、9.11の1周忌を控えて緊迫していた。セキュリティーは強化されていた。初めての海外旅行で靴を脱がされての取り調べに蒼ざめているラボッ子もいた。TVは毎日テロとの戦いを訴えていたし、家族でも毎日そのことが話題となっていた。教会では平和への祈りが捧げられていた。
殺し合い、恨み合いの連鎖は何も今始まったことではない。バベルの塔の昔から、いや人間の歴史の始まりから数えることのできないほど繰り返されてきた。聖地をめぐる争いが続く中東の根は深い。
2003年3月、イラク戦争開始。終戦宣言もテロ・誘拐・殺害は後をたたない。先日はロシアでも航空機爆破や子ども達を巻き添えにした凄まじい痛ましい事件が起きた。
9,11事件の跡地には以前のタワーを遥かに超える高層ビルが建設されるという。
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