★1812年ナポレオン戦争
1821年ドストエフスキー誕生
★1825年デカブリストの乱
農民一揆ではなく、貴族による皇帝への反乱
★1830年フランス7月革命
★1831年ポーランド独立宣言、ロシア皇帝による弾圧
1837年 母マリヤ・フョ-ドロヴナ・ドストエフスカヤ死去
1838年 ペテルブルグの工兵学校に入学
1839年 父ミハイル農奴の恨みをかい謀殺される
1841年 工兵学校を卒業し工兵少尉になる
1845年『貧しき人々』
1848年『白夜』
★1848年フランス2月革命
1849年ペトラシェフスキー事件
成功した新進の作家ドストエフスキーは
ペトラシェフスキー事件に連座して
反逆罪で、逮捕され、死刑の宣告を受ける
23人の被告中21人が死刑
死刑執行の直前に皇帝による恩赦が告げられ
縛を説かれたとき仲間の一人は発狂している
1850年シベリアへの流刑となる
実際にはでっち上げ事件であり
ドストエフスキーの罪はその会で
ペトラシェフスキーからゴーゴリに当てた
書簡を読み上げたというものである
4年後に出獄、さらに兵卒としてシベリアで勤務
『死の家の記録』は流刑地の監獄での日々を綴った作品である
1855年出獄後1年で書き始め、数年後
1861年に発表出版している
1859年ペテルブルグに戻ることができた
独房ではなく集団の生活の中に投げ込まれる
一度も一人になることができなかった
貴族地主であった彼にとってさまざまな出身地から来た民衆、
例えば独立運動の志士であるポーランド人たちや
チェチェン人、キルギス人、ユダヤ人がいる
あらゆる種類の犯罪人たちとの
関わり、出会いがどのようなものであったか
ことばと身体をとおして語られるその現実
重罪人でありながらもそこにある人間の真実
重さ10ポンドの足枷をつけられ、苛酷でありながら、
賄賂で酒を買ったり、肉を買ったり
囚人の中に質屋、酒屋、金貸し、密告屋、床屋、料理人がいるという
何故か牧歌的、人間的に見えてきてしまう日々の生活
労働、衣食住、入浴、祈り、クリスマス、囚人たちによる芝居
監獄のパンが町でも評判になっているほどおいしいということ
囚人へ民衆からの施しがあること
当時のサロンや文壇で
人とうまく関わることのできなかったドストエフスキーが
犯罪者である民衆と収容所(獄舎)というむき出しの関係のなかで
出会ってゆく様子がほほえましくもある
後期の作品群の人物にはここで出会った人々の強烈な印象
その人々との会話の記憶が塗りこめられている
人物像の原型がみなここにあるようだ
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