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怖くなくなった「バッファローの娘」 |
11月12日 (木) |
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月曜日に一日広場があり、秋の研修で取り組んだ「バッファローの娘」を発表した。秋の研修として「テューターが物語を感じ心を動かすテーマ活動を体験する」ことが課題のひとつとなっている。5回の研修の中でひとつのお話を発表するのは、どうしても「時間」という制約があり、やりきれないことも多々ある。今回の「バッファローの娘」は、前の日記にも書いたように、はじめは若者がバッファローになるところに怖さを感じるばかりだった。でも研修が進むにつれて見方が変わってきた。妻と息子を愛する気持ちは人間の姿であろうとバッファローの姿であろうとゆるぎない若者は、尊敬の念をもってバッファロー一族に迎えられたのであって、バッファローたちが若者を転がすところも、儀式としてとらえると心に落ちた。ちょうどナレーションもその場面を担当したが、内容はけっこうすさまじいものだが、神聖な気持ちで取り組めた。このことが「ミタクエオヤシン」というネイティヴアメリカンの価値観につながっていったと感じながらみんなで語った最後のナレーションも気持ちよかった。「時間」があればもっと表現ができるところもあったかもしれないが、今回は物語のテーマにみんなで近づけてこだわってきたことが、大きな収穫だった。またこの一日前は支部の中活があり、地区では、「はだかのダルシン」を発表したが、ダルシンが森の中で自然の力によって育てられ成長していくところ、動物たちと会話を交わして、助け合うところなど、自然界のすべてのものに感謝するというところで「バッファロー・・」に通じるものがあり、面白かった。「われわれはつながっている」そう考えると、アメリカの歴史でネイティヴアメリカンから食糧を奪うために「バッファロー狩り」をしたという現実はなんと野蛮な行為だったかと思ってしまう。トムソーヤーでは悪者として登場するインディアンジョーとか、大草原の小さな家の中に登場するインディアンは、白人から見た存在として書かれている。ライブラリーでネイティヴアメリカンを取り上げたのは正解でしたね。
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